翌日は同じ閖上地区の別の被災したお宅での作業だった。この家ではボランティア15人で床下の土砂出しを行い、1ヵ月以上かけてやってきた作業がこの日に終わりを迎えた。家のご主人は涙を浮かべながら、我々ボランティアに感謝の意を伝えていた。また、そんなご主人からの言葉を聞き、同じく涙するボランティアの姿もあった。この日一緒にボランティア活動した人のなかにも名取市在住の人がおり、その人の話では、震災後、メディアには一切出なかったが、名取の被災地区では略奪などがいくつも起こったこということを聞いた。
3日目は名取でボランティアする人の間では言わずと知れた、カーネーション畑での作業だった。何故言わずと知れたものなのかというと、まず、名取市はカーネーションの栽培で有名な土地であり、そのカーネーション畑が津波の被害を受けてしまった。そして、そのカーネーション畑に流れ込んだ土砂を除去しなければならないのだが、ビニールハウス内での作業を強いられるため、暑い。6月でもハウス内は35℃に達するのだ。私の作業する前日には熱中症で体調を壊した人がいたほどだった。実際にそこで作業した人の話だと、2日作業すると確実に体重が1キロ落ちるという、そういう過酷ゆえに有名な現場だった。
私が作業した日はそれほど太陽が照りつけることはなかったが、それでもハウス内は風が全くというほど通り抜けないため、とても蒸し暑かった。作業服は汗にまみれ、水や麦茶を何リットルのんだかわからない。ボランティアの数は30~40名。何故この現場にこれほどの人数をかけるのかというと、カーネーションを栽培しているスペースが広く、そのビニールハウスがいくつもあるということと、この時期に土砂を取り出し、カーネーションの栽培を再開しないと、来年の出荷に間に合わないという事情があってのことだった。
作業を終え、いったんボランティアセンターに戻ると、この日は仙台市、多賀城市へ車の走らせた。名取市以外の被害状況もこの目で見てみたかったからだ。名取市も目を覆いたくなる光景をいくつも見たきたが、仙台、多賀城の被害も大きかった。震災後3ヵ月たっても電気が通らない信号機がいくつもあったし、道が大きく隆起し、通行止めになっている道路もあった。とりわけ強い印象を残した場所が仙台港だった。港周辺には港の利を活かすために大企業の工場や倉庫が点在しているが、この工場や倉庫がほとんど全て津波でやられてしまっていた。また、港周辺は海産物の異臭が強く漂っていた。
私は仙台周辺の被害状況を見て改めて復興、再生には膨大な年月を要すると思った。
ボランティアセンターの駐車場に戻り、そこでいつものように車で寝るための仕度をし、体を横にした。今日見てきた光景が網膜に張り付くように残っていたが、肉体労働による疲れか、あっという間に眠りについた。
2011/07/28
距離感
ボランティアの送迎バスは、我々の作業現場である家のそばで停車し、我々が用具を積み下ろすと、次の作業現場へと走り去っていった。
バスを降りた地点には無人精米機が2台並んでいたが、どうしたらこのようにに壊れるのだろうというくらい破壊されていた。いや、無人精米機だけではない。車も家も店もほとんどが『壊滅的』に壊れていた。
スコップやバケツなどの作業用具を持ち、作業現場である家の庭に運び入れた。家の中では既に大工らしき人たちが淡々と作業をしていた。我々のボランティアのリーダーがボランティアに来た旨を家の奥さんらしき人に伝え、我々がすべき作業を聞いた。
奥さんの作業指示を聞きながら周りを見渡すと、斜め左先に『閖上』という名の中学校が見えた。なんと読むのか分からなかったが、あとで作業した地点を確かめるための目印になるだろうと思った。また、家の前を通り海へと続く道路では、警備員数人が通行規制をしており、通行許可証を持たない車が次々とUターンさせられていた。
我々がすべき作業はというと、大工さんたちが壊した屋内の壁やらドアからでる木屑やゴミ、塵を取り除くというものだった。床下の土砂はほとんど取り除かれているので、最初は簡単な作業のように思えたが、なかなか難しかった。
床下を家の土台となる木が網目のように通っているため、移動するには木の上をバランスをとりながら歩かなければならないし、ゴミを集めるのにも木が邪魔になる。また、特にその木の網目の細かい場所では、ほうきやちりとりを動かすスペースが限られ、なかなか道具を思うように動かせないのだ。
また、一つ失敗したと思ったことがあった。家の中の作業なので日の光は防いでくれるが、風が強く吹き付けるため、ほうきで掃いた屑が風で舞い上がり、それが目に入ってしまう。目を守るゴーグルを持参しておけばよかったなと後悔した。
1時間の昼休憩に入り、ボランティアメンバーの一人が名取市の人だったので、『閖上』という文字をなんと読むのか問うと、『ゆりあげ』と読むとを教えてくれた。そして、後にこの閖上という地区が名取市最大の被災地域であることを知った。
その後も家の主人や奥さんのテキパキとした指示に従い作業に励んだ。作業が進むごとに別のものも見えてきた。家の壁や階段下に付着したヘドロ、ゴミ。家の一階の大部分をのみ込んだ約2メートルの波の痕。その後もいくつかの細かい作業を丹念に他のメンバーで協力してこなし、15時に作業を終えた。
作業後、ボランティアメンバーと家の主人、奥さんと話をした。主人と奥さんは我々にこういう話をしてくれた。津波がきた時、津波が家を流し、その流された家が他所の家を流していった。周辺の家々はほとんど将棋倒しのように流されてしまったが、この家はなんとか残った。それは、『門がなければ文無しになるから、家を建てるときは必ず門を作りなさい』と口すっぱく言っていた明治生まれのお婆さんの教えを守ったからだという。
門は今にも崩れ落ちそうに壊れてしまったが、海の方向に向いて建つその門が、今回の津波に対して防波堤の役割を果たし、家の骨組みと土台をなんとか守ったのだ。
大地震の時、主人は仕事で不在だったが、奥さんは家にいた。奥さんは、まさかここまではこないだろうと思い、家に留まっていたという。だが、轟音とともに迫る津波が目に飛び込んできて、大急ぎで避難し、命からがら助かった。
海から家までの距離を尋ねると、だいたい1.6kmくらいだという。それを聞いて、他人事のように思っていた津波が、急に現実的なものとなった。私の家も海から1.5kmくらいの距離だからだ。海に面する町に住むものにとって、この距離は近いと思うものでもない。海が目に見え、潮の香りがする所でもなければ、海からの害があるなど思いもしないからだ。
海から1.6kmの距離で高さ2mの津波。
私は、今回の大地震の震源地が自分の地域に近く、自分の家まで津波がきていたら、と考えずにいられなかった。
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バスを降りた地点には無人精米機が2台並んでいたが、どうしたらこのようにに壊れるのだろうというくらい破壊されていた。いや、無人精米機だけではない。車も家も店もほとんどが『壊滅的』に壊れていた。
スコップやバケツなどの作業用具を持ち、作業現場である家の庭に運び入れた。家の中では既に大工らしき人たちが淡々と作業をしていた。我々のボランティアのリーダーがボランティアに来た旨を家の奥さんらしき人に伝え、我々がすべき作業を聞いた。
奥さんの作業指示を聞きながら周りを見渡すと、斜め左先に『閖上』という名の中学校が見えた。なんと読むのか分からなかったが、あとで作業した地点を確かめるための目印になるだろうと思った。また、家の前を通り海へと続く道路では、警備員数人が通行規制をしており、通行許可証を持たない車が次々とUターンさせられていた。
我々がすべき作業はというと、大工さんたちが壊した屋内の壁やらドアからでる木屑やゴミ、塵を取り除くというものだった。床下の土砂はほとんど取り除かれているので、最初は簡単な作業のように思えたが、なかなか難しかった。
床下を家の土台となる木が網目のように通っているため、移動するには木の上をバランスをとりながら歩かなければならないし、ゴミを集めるのにも木が邪魔になる。また、特にその木の網目の細かい場所では、ほうきやちりとりを動かすスペースが限られ、なかなか道具を思うように動かせないのだ。
また、一つ失敗したと思ったことがあった。家の中の作業なので日の光は防いでくれるが、風が強く吹き付けるため、ほうきで掃いた屑が風で舞い上がり、それが目に入ってしまう。目を守るゴーグルを持参しておけばよかったなと後悔した。
1時間の昼休憩に入り、ボランティアメンバーの一人が名取市の人だったので、『閖上』という文字をなんと読むのか問うと、『ゆりあげ』と読むとを教えてくれた。そして、後にこの閖上という地区が名取市最大の被災地域であることを知った。
その後も家の主人や奥さんのテキパキとした指示に従い作業に励んだ。作業が進むごとに別のものも見えてきた。家の壁や階段下に付着したヘドロ、ゴミ。家の一階の大部分をのみ込んだ約2メートルの波の痕。その後もいくつかの細かい作業を丹念に他のメンバーで協力してこなし、15時に作業を終えた。
作業後、ボランティアメンバーと家の主人、奥さんと話をした。主人と奥さんは我々にこういう話をしてくれた。津波がきた時、津波が家を流し、その流された家が他所の家を流していった。周辺の家々はほとんど将棋倒しのように流されてしまったが、この家はなんとか残った。それは、『門がなければ文無しになるから、家を建てるときは必ず門を作りなさい』と口すっぱく言っていた明治生まれのお婆さんの教えを守ったからだという。
門は今にも崩れ落ちそうに壊れてしまったが、海の方向に向いて建つその門が、今回の津波に対して防波堤の役割を果たし、家の骨組みと土台をなんとか守ったのだ。
大地震の時、主人は仕事で不在だったが、奥さんは家にいた。奥さんは、まさかここまではこないだろうと思い、家に留まっていたという。だが、轟音とともに迫る津波が目に飛び込んできて、大急ぎで避難し、命からがら助かった。
海から家までの距離を尋ねると、だいたい1.6kmくらいだという。それを聞いて、他人事のように思っていた津波が、急に現実的なものとなった。私の家も海から1.5kmくらいの距離だからだ。海に面する町に住むものにとって、この距離は近いと思うものでもない。海が目に見え、潮の香りがする所でもなければ、海からの害があるなど思いもしないからだ。
海から1.6kmの距離で高さ2mの津波。
私は、今回の大地震の震源地が自分の地域に近く、自分の家まで津波がきていたら、と考えずにいられなかった。
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2011/07/02
視えない被災
ボランティアセンターが設置されている名取市民体育館に行くと、朝の7時とまだ時間が早いせいか入り口のドアが閉まっていた。ボランティアの受付開始の8時まで時間があるので、車で朝飯のおにぎりを食べ腹ごしらえをした。7時半にもなるとボランティアらしき人達が、体育館からスコップ、一輪車などのボランティアが使用する道具をきびきびと手際良く外へ持ち出した。後から知ったことだが、彼らは東北福祉大学と尚絅学院大学という地元の大学の学生たちで、実際に被災現場に行って活動をするボランティアではなく、現場でボランティア活動をする人達がスムーズに活動できようサポートするための、スポーツチームにおけるマネージャーのようなサポート役のボランティアだった。
8時を少し過ぎたところで体育館に入った。まずは、初めてボランティアするための登録手続きをしたが、これは事前にボランティア保険に加入していたこともあって簡単に済んだ。次に館内に入ると、まず目に飛び込んできたのは、支援物資が詰まれている大量のダンボールだった。体育館の7割は支援物資のスペースとして使用され、残りの3割がボランティアを運営するためのスペースになっているようだった。また、体育館の壁には芸能人やスポーツ選手からの励ましのメッセージが掲示されていた。私の目にはいろいろ真新しいものばかりだったが、その中でも一番目に付いたのは、ボランティア参加者のなかに欧米人らしき外国人男性が一人いたことだ。どんな素性の人なのだろう、話す機会があればいいなと思った。
ボランティアのオリエンテーションの始まる9時になると、まずラジオ体操から始まった。ラジオ体操をするのは何年ぶりだろう、そんな感傷にも浸ったが、誰一人このラジオ体操をダラダラとやる者はいなかった。これから始まるボランティアがキツイということを暗示しているようにも思えた。オリエンテーションは名取市のボランティアセンターのスタッフによって手際よく進められていく。この名取ボランティアセンターは、ボランティアの活動内容や場所をボランティア参加者がある程度選択できるマッチングという方式をとっており、ボランティアセンターに早く来た者がより、活動内容を選べるようなシステムになっていた。
私は初めてのこともあって、場所はもちろん活動内容もどんなものなのかほとんどわからなかったので、どんな活動でもいいなと思っていたが、せっかくこうしてここまで来たのだから、楽なものよりキツイ仕事をしたいなと思った。結局、家の土砂だし、片付けをボランティア4名で行う活動に決まった。そして、マネージャー役のボランティアが用意しておいてくれたスコップやバケツ、土のう袋等の用具をピックアップし、それを送迎マイクロバスに積み込み、現場に向かった。
バスで5分も走ると景色が一変した。瓦礫で散らかった土地、打ち上げられた船、原型をとどめない家や車、これまでテレビで何度も見てきたはずのものだが、実際に自分の目で見るとその落差が大きかった。地震の揺れだけではここまでの被害はおきない、あきらかに津波による被害をわかるそれは、絶望的な被災の痕を残した。
長いことユーラシア大陸を旅して様々な場所に行ったが、ここまで生々しさの残る被害現場を見たことはなかった。絶望的な風景に声を失う、とにかくそこから始まった。
8時を少し過ぎたところで体育館に入った。まずは、初めてボランティアするための登録手続きをしたが、これは事前にボランティア保険に加入していたこともあって簡単に済んだ。次に館内に入ると、まず目に飛び込んできたのは、支援物資が詰まれている大量のダンボールだった。体育館の7割は支援物資のスペースとして使用され、残りの3割がボランティアを運営するためのスペースになっているようだった。また、体育館の壁には芸能人やスポーツ選手からの励ましのメッセージが掲示されていた。私の目にはいろいろ真新しいものばかりだったが、その中でも一番目に付いたのは、ボランティア参加者のなかに欧米人らしき外国人男性が一人いたことだ。どんな素性の人なのだろう、話す機会があればいいなと思った。
ボランティアのオリエンテーションの始まる9時になると、まずラジオ体操から始まった。ラジオ体操をするのは何年ぶりだろう、そんな感傷にも浸ったが、誰一人このラジオ体操をダラダラとやる者はいなかった。これから始まるボランティアがキツイということを暗示しているようにも思えた。オリエンテーションは名取市のボランティアセンターのスタッフによって手際よく進められていく。この名取ボランティアセンターは、ボランティアの活動内容や場所をボランティア参加者がある程度選択できるマッチングという方式をとっており、ボランティアセンターに早く来た者がより、活動内容を選べるようなシステムになっていた。
私は初めてのこともあって、場所はもちろん活動内容もどんなものなのかほとんどわからなかったので、どんな活動でもいいなと思っていたが、せっかくこうしてここまで来たのだから、楽なものよりキツイ仕事をしたいなと思った。結局、家の土砂だし、片付けをボランティア4名で行う活動に決まった。そして、マネージャー役のボランティアが用意しておいてくれたスコップやバケツ、土のう袋等の用具をピックアップし、それを送迎マイクロバスに積み込み、現場に向かった。
バスで5分も走ると景色が一変した。瓦礫で散らかった土地、打ち上げられた船、原型をとどめない家や車、これまでテレビで何度も見てきたはずのものだが、実際に自分の目で見るとその落差が大きかった。地震の揺れだけではここまでの被害はおきない、あきらかに津波による被害をわかるそれは、絶望的な被災の痕を残した。
長いことユーラシア大陸を旅して様々な場所に行ったが、ここまで生々しさの残る被害現場を見たことはなかった。絶望的な風景に声を失う、とにかくそこから始まった。
2011/06/25
理由
翌朝、強烈な日差しと暑さと、喉の渇きで目が覚めた。
前日の23時に家を出た私は、まず国道6号線でいわきまで行き、いわき三和ICから高速道路に乗り磐越自動車道を走り、郡山ジャンクションで東北自動車道に乗り換え、宮城の白石ICで高速を降り、そこから国道4号線で宮城県の名取市に入った。そして、午前3時に名取市のあるコンビ二で車を停め、そこの駐車場で夜を明かした。
携帯のアラームは8時にセットしておいたが、7時に目が覚め、ぐっすり寝た感覚が得られたため、二度寝することなく名取市の災害ボランティアセンターが設置されている名取市民体育館に向かった。
なぜ名取市を選んだのか。それには私なりの理由があった。
災害ボランティアをやることを決意した時、次にどの被災地でやるのかということを決めねばならなかった。メディアからは、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石といった地名をよく見聞きする。そのなかで茨城から一番近い石巻にしようかなと当初は考えていた。しかし、インターネットで石巻のボランティア情報を見ると、あれはダメ、これはダメ、ルールを守れない人は退場していただきます。といった厳しい文言が(当時は)大きく掲載されていた。私はそこから、『Welcome』というメッセージを感じとることはできなかった。ボランティアをする人に対しあからさまに禁止事項を説くのはどうだろうと疑問に思ったからだ。だが同時にそれは、石巻が大勢のボランティアで混乱しているのではないかとも思えた。
さて、どこにしよう。そんな思いを抱いたまま過ごしていたある時、新聞を読んでいるとそこに東北の太平洋沿岸部地図上に震災による市町村ごとの死者数が書かれていた。やはりメディアに大きく取り上げられている都市は死者も多い。しかし、メディアであまり見聞きしない都市でも死者数が多いところもある。そのとき、一つの考えが浮かんだ。
今回の震災で茨城も大きな打撃を受けたが東北3県のインパクトがあまりにも大きいため、ほとんど支援がなかった。必ずしも被害大きさに比例するように正しく支援を受けられるわけではない。茨城のような、大きなスポットを浴びないものの、被害の少なくない、そんな土地があるはずだ。そんな忘れられた被災地へ行こうとそう考えた。
宮城県の沿岸部を南から見ていくと、山元町、亘理町、岩沼市、とあり名取市のところで目が止まった。すぐ南に位置する岩沼市の死者数195名と比べ、名取市は928名(当時)とある。この死者数の違いが奇異に思えたし、メディアの露出度の少なさと比べると被害がかなり大きいように思えた。
名取にしよう。直感も相まって名取という土地でボランティアをすることにしたのだった。
そしてこの決断が、後々多くの驚きと偶然をもたらすことになった。
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前日の23時に家を出た私は、まず国道6号線でいわきまで行き、いわき三和ICから高速道路に乗り磐越自動車道を走り、郡山ジャンクションで東北自動車道に乗り換え、宮城の白石ICで高速を降り、そこから国道4号線で宮城県の名取市に入った。そして、午前3時に名取市のあるコンビ二で車を停め、そこの駐車場で夜を明かした。
携帯のアラームは8時にセットしておいたが、7時に目が覚め、ぐっすり寝た感覚が得られたため、二度寝することなく名取市の災害ボランティアセンターが設置されている名取市民体育館に向かった。
なぜ名取市を選んだのか。それには私なりの理由があった。
災害ボランティアをやることを決意した時、次にどの被災地でやるのかということを決めねばならなかった。メディアからは、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石といった地名をよく見聞きする。そのなかで茨城から一番近い石巻にしようかなと当初は考えていた。しかし、インターネットで石巻のボランティア情報を見ると、あれはダメ、これはダメ、ルールを守れない人は退場していただきます。といった厳しい文言が(当時は)大きく掲載されていた。私はそこから、『Welcome』というメッセージを感じとることはできなかった。ボランティアをする人に対しあからさまに禁止事項を説くのはどうだろうと疑問に思ったからだ。だが同時にそれは、石巻が大勢のボランティアで混乱しているのではないかとも思えた。
さて、どこにしよう。そんな思いを抱いたまま過ごしていたある時、新聞を読んでいるとそこに東北の太平洋沿岸部地図上に震災による市町村ごとの死者数が書かれていた。やはりメディアに大きく取り上げられている都市は死者も多い。しかし、メディアであまり見聞きしない都市でも死者数が多いところもある。そのとき、一つの考えが浮かんだ。
今回の震災で茨城も大きな打撃を受けたが東北3県のインパクトがあまりにも大きいため、ほとんど支援がなかった。必ずしも被害大きさに比例するように正しく支援を受けられるわけではない。茨城のような、大きなスポットを浴びないものの、被害の少なくない、そんな土地があるはずだ。そんな忘れられた被災地へ行こうとそう考えた。
宮城県の沿岸部を南から見ていくと、山元町、亘理町、岩沼市、とあり名取市のところで目が止まった。すぐ南に位置する岩沼市の死者数195名と比べ、名取市は928名(当時)とある。この死者数の違いが奇異に思えたし、メディアの露出度の少なさと比べると被害がかなり大きいように思えた。
名取にしよう。直感も相まって名取という土地でボランティアをすることにしたのだった。
そしてこの決断が、後々多くの驚きと偶然をもたらすことになった。
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2011/06/17
動機
東北に入る前に、我が市の社会福祉協議会に足を運んだ。理由は災害ボランティア保険に入るためである。保険料は自分で負担するものだと思っていたが、実際申し込むと県が全額保険料を負担してくれるようでお金がかからなかった。
なぜ災害ボランティアをするのか。それには私なりの動機がある。
私はそれまでボランティア活動に対して肯定的に捉えることができないでいた。ボランティアと名が付く活動は全て、無条件で良いことをしているのだと世間も当人も考えるような、そんな風潮が嫌だったからだ。それゆえ、ボランティアは『偽善者の自己満足』と自分のなかで歪んだ定義づけをしてしまっていた。
しかし、この考えは旅で大きく覆されることになった。それは一つにマザーハウス、『死を待つ人の家』でのボランティア体験が大きい。旅に出る前、ある知人からインドに行くことがあれば、マザーハウスでボランティアするように、と強く勧められていた。その知人は、実際の体験者であり、いろいろ考えらせられるから貴重な体験になる、とアドバイスをくれていた。
旅の途中、インドのコルカタに入ると、実際に『死を待つ人の家』でボランティアをした。だが、その活動を通して、考えさせられるどころか、思考回路を失い、呆然としてしまった。今までに見たことがない強烈な光景がそこに広がっていたからだ。私は、目の前の与えられた仕事を不器用にこなすのが精一杯だった。
ボランティアから離れると少し考えるものがあった、。マザーハウスでは何ヶ月、何年もボランティアをしている外国人が少なくない。彼らは入所者の介護、排泄、掃除、洗濯という肉体的に辛い仕事もするし、日々生命の終りを看取るという精神的に辛い仕事もする。それを何の報酬もなくである。長期間ボランティアをしているある日本人は、コルカタ滞在中にマラリアや、デング熱にかかり死を彷徨ったこともあったと話していた。
私はそういう彼らの姿を見聞きし、もはやボランティアを『偽善者の自己満足』とは全く思わなくなっていた。そして、自分も彼らのように、社会的に弱い人、困っている人を助けられる存在でありたいと思うようになった。
そのようなマザーハウスでの強烈な体験と、そこで働く人たちから受けた影響が、今回災害ボランティアへと向かわす動機となった。(もう一つ大きな動機があるが、ここでは伏せておく)
久しぶりにバックパックを取り出し、必要な旅具を入れ、また、震災後に調達した非常食も兼ねた乾麺、缶詰を集め、携帯ガスコンロも用意し、それらを車に積め、夜11時に家を出発した。
50分も車で一般道を走らせると、福島県いわき市に入った。そこからまたしばらく走り、薄暗い道路案内の看板から、双葉町、南相馬市という文字が目に飛び込んでくると、あらためて自分の住む町が、世界的にも知れ渡ってしまった『福島第一プラント』からさほど離れていないことを実感した。車のラジオからは、都はるみの『あんこ椿は恋の花』というやけに力強い歌が流れていた。
なぜ災害ボランティアをするのか。それには私なりの動機がある。
私はそれまでボランティア活動に対して肯定的に捉えることができないでいた。ボランティアと名が付く活動は全て、無条件で良いことをしているのだと世間も当人も考えるような、そんな風潮が嫌だったからだ。それゆえ、ボランティアは『偽善者の自己満足』と自分のなかで歪んだ定義づけをしてしまっていた。
しかし、この考えは旅で大きく覆されることになった。それは一つにマザーハウス、『死を待つ人の家』でのボランティア体験が大きい。旅に出る前、ある知人からインドに行くことがあれば、マザーハウスでボランティアするように、と強く勧められていた。その知人は、実際の体験者であり、いろいろ考えらせられるから貴重な体験になる、とアドバイスをくれていた。
旅の途中、インドのコルカタに入ると、実際に『死を待つ人の家』でボランティアをした。だが、その活動を通して、考えさせられるどころか、思考回路を失い、呆然としてしまった。今までに見たことがない強烈な光景がそこに広がっていたからだ。私は、目の前の与えられた仕事を不器用にこなすのが精一杯だった。
ボランティアから離れると少し考えるものがあった、。マザーハウスでは何ヶ月、何年もボランティアをしている外国人が少なくない。彼らは入所者の介護、排泄、掃除、洗濯という肉体的に辛い仕事もするし、日々生命の終りを看取るという精神的に辛い仕事もする。それを何の報酬もなくである。長期間ボランティアをしているある日本人は、コルカタ滞在中にマラリアや、デング熱にかかり死を彷徨ったこともあったと話していた。
私はそういう彼らの姿を見聞きし、もはやボランティアを『偽善者の自己満足』とは全く思わなくなっていた。そして、自分も彼らのように、社会的に弱い人、困っている人を助けられる存在でありたいと思うようになった。
そのようなマザーハウスでの強烈な体験と、そこで働く人たちから受けた影響が、今回災害ボランティアへと向かわす動機となった。(もう一つ大きな動機があるが、ここでは伏せておく)
久しぶりにバックパックを取り出し、必要な旅具を入れ、また、震災後に調達した非常食も兼ねた乾麺、缶詰を集め、携帯ガスコンロも用意し、それらを車に積め、夜11時に家を出発した。
50分も車で一般道を走らせると、福島県いわき市に入った。そこからまたしばらく走り、薄暗い道路案内の看板から、双葉町、南相馬市という文字が目に飛び込んでくると、あらためて自分の住む町が、世界的にも知れ渡ってしまった『福島第一プラント』からさほど離れていないことを実感した。車のラジオからは、都はるみの『あんこ椿は恋の花』というやけに力強い歌が流れていた。
2011/06/13
旅の気配
ご無沙汰しいてます。前回の投稿からだいぶ更新が滞ってしまいました。
3.11の震災から3ヶ月。その間さまざまなことがありましたが、私の安否や物資の支給等をお気遣いいただいた多くの方に、心よりお礼申し上げます。
私の住む茨城も岩手、宮城、福島ほどではないにせよ、震災によって多くのものが破壊され、失われました。震災直後は電気、ガスは、水道はそれぞれ5日、8日、10日使用することができませんでしたし、放射能による直接、間接の被害が今なお残るのも事実です。
そういえば、震災後に安否確認のメールくれた旅の友がこんなことを言っていました。『不謹慎かもしれないが、震災で旅を思い出した。』私もその言葉に大きく頷けるものがあります。それというのも、震災によって多くのことに気づき、学んだからなのです。
被災地へと赴いた先週から昨日までの体験について、これから少し記したいと思います。
3.11の震災から3ヶ月。その間さまざまなことがありましたが、私の安否や物資の支給等をお気遣いいただいた多くの方に、心よりお礼申し上げます。
私の住む茨城も岩手、宮城、福島ほどではないにせよ、震災によって多くのものが破壊され、失われました。震災直後は電気、ガスは、水道はそれぞれ5日、8日、10日使用することができませんでしたし、放射能による直接、間接の被害が今なお残るのも事実です。
そういえば、震災後に安否確認のメールくれた旅の友がこんなことを言っていました。『不謹慎かもしれないが、震災で旅を思い出した。』私もその言葉に大きく頷けるものがあります。それというのも、震災によって多くのことに気づき、学んだからなのです。
被災地へと赴いた先週から昨日までの体験について、これから少し記したいと思います。
2011/02/28
赤を渡る
町に出るとすでに歓喜に沸く人々で溢れかえっていた。通りを少し進むと、ビールだかカクテルだかのビンを地面に叩きつける者、発炎筒を焚く者、下半身を露出する者、というような危険な行為をする人々が現れた。ワールドカップ初優勝という最高の美酒がその気ちがいじみた行為に拍車をかけていることに間違いないようだったが、私は過剰に興奮する人々に対し少しばかり恐れをなした。だが、ここスペインは先進国の一つであることを思い起こし、少々脅える自分を奮い立たせた。
私はこの旅をスタートさせる時、デジカメをはじめとする機械類をほとんど持たずに旅に出た。それは、機械的なものをできるだけ排除して、五感が受けるものをダイレクトに感じとろう、という信条のようなものをもっていたからだ。しかし、旅を続けるなかでいつしか安いデジカメを購入してからは、それほど多いわけではないが、いくつかの風景、光景を写真に収めるようになった。それは、私にいくつかの場面を画として残したいという『欲』が生まれたからであろう。そしてこの夜、また新たな『欲』が生まれた。それはこの光景を動くものとして残したいというものだった。私はその欲に任せてこの旅初めて動画を撮ることにした。
人の流れに沿いカメラを片手に歩くと、スペインの国色である赤いユニフォームやらシャツやらを着ている人が目に付く。また、それと同じくらいスペインの国旗をマントのように背中にまとって歩く人々がいる。ポルトガルといい、スペインといい、国旗のデザインにセンスがあり、そのマント姿が何ともカッコいい。撮影していると数人にジャッキーチェン!ジャッキーチェン!と声を掛けられる。しかし、その言葉に悪意はない。
セビージャの町の中心らしき噴水のある場所まで行くと、そこで騒ぐ人々が噴水によじ登り、噴水が人の山と化していた。ここでも危険な行為や放送コードに触れるような行為をしてる者がいた。そこで15分ほど人々の乱痴気騒ぎを眺めると、スペインの地で優勝の興奮を味わえたことに満足し、宿に帰るためもと来た道を戻った。
そして、200メートルほど歩い時、そこに一台の救急車が。
『GOGO ESPANOL~ESPANOL ESPANOL GOGO ESPANOL~ESPANOL ESPANOL』
救急車の運転手がマイクを使い、スペイン代表の応援フレーズを叫びながら進んでいく。。。私にはこの救急車の行動が何とも印象に残った。
まずそもそもだ、この救急車は患者を乗せていなかったのかということだ。患者を乗せているのにマイクで叫びながら進んでいたら問題だろう。急病の患者をピックアップにいく途中だったとしても時間のロスで問題だ。仮にそのどちらでもなく、ただ救急車を走らせて、マイクを使って『ESPANOL ESPANOL』と叫んだだけだとしても、日本であれば、公務員のそのような行動は、必ずメディアなり上司なりに叩かれるはずだ。いくら日本がワールドカップを優勝した夜だとしても。
もしかしたら、スペイン人々のこういった屈託ない行動、国民性こそが、世界最大のスポーツの頂点に立つために必要なエッセンスなのかもしれない。日本社会は規則が厳しい。会社、上司の言うことは、ほぼ絶対である。守らなければならないルールというのは確かにあると思う。しかし、状況にかかわらず漠然とルールやマニュアルに従うことの先になにがあるのだろう。
昔、日韓ワールドカップの時に日本代表の監督を務めたフィリップ・トルシエがこう言ったことがある。「日本人は車が通っていないのに赤信号を渡らない。日本人が赤信号を渡らないのは、判断力がないからだ。」トルシエについては、その人格の良し悪しに賛否両論あるが、この発言は日本人の特性についての真理をよくついているように思える。
新大陸を発見した探検家コロンブスの眠るサントドミンゴ大聖堂の横を通りながら、いつの間にかそんなことを考えていた。
日本はいつ新大陸を見つけられるのだろうか。
噴水
before
after
サントドミンゴ大聖堂
※動画をアップしたかったのですが、やり方が分からず出来ませんでした。
私はこの旅をスタートさせる時、デジカメをはじめとする機械類をほとんど持たずに旅に出た。それは、機械的なものをできるだけ排除して、五感が受けるものをダイレクトに感じとろう、という信条のようなものをもっていたからだ。しかし、旅を続けるなかでいつしか安いデジカメを購入してからは、それほど多いわけではないが、いくつかの風景、光景を写真に収めるようになった。それは、私にいくつかの場面を画として残したいという『欲』が生まれたからであろう。そしてこの夜、また新たな『欲』が生まれた。それはこの光景を動くものとして残したいというものだった。私はその欲に任せてこの旅初めて動画を撮ることにした。
人の流れに沿いカメラを片手に歩くと、スペインの国色である赤いユニフォームやらシャツやらを着ている人が目に付く。また、それと同じくらいスペインの国旗をマントのように背中にまとって歩く人々がいる。ポルトガルといい、スペインといい、国旗のデザインにセンスがあり、そのマント姿が何ともカッコいい。撮影していると数人にジャッキーチェン!ジャッキーチェン!と声を掛けられる。しかし、その言葉に悪意はない。
セビージャの町の中心らしき噴水のある場所まで行くと、そこで騒ぐ人々が噴水によじ登り、噴水が人の山と化していた。ここでも危険な行為や放送コードに触れるような行為をしてる者がいた。そこで15分ほど人々の乱痴気騒ぎを眺めると、スペインの地で優勝の興奮を味わえたことに満足し、宿に帰るためもと来た道を戻った。
そして、200メートルほど歩い時、そこに一台の救急車が。
『GOGO ESPANOL~ESPANOL ESPANOL GOGO ESPANOL~ESPANOL ESPANOL』
救急車の運転手がマイクを使い、スペイン代表の応援フレーズを叫びながら進んでいく。。。私にはこの救急車の行動が何とも印象に残った。
まずそもそもだ、この救急車は患者を乗せていなかったのかということだ。患者を乗せているのにマイクで叫びながら進んでいたら問題だろう。急病の患者をピックアップにいく途中だったとしても時間のロスで問題だ。仮にそのどちらでもなく、ただ救急車を走らせて、マイクを使って『ESPANOL ESPANOL』と叫んだだけだとしても、日本であれば、公務員のそのような行動は、必ずメディアなり上司なりに叩かれるはずだ。いくら日本がワールドカップを優勝した夜だとしても。
もしかしたら、スペイン人々のこういった屈託ない行動、国民性こそが、世界最大のスポーツの頂点に立つために必要なエッセンスなのかもしれない。日本社会は規則が厳しい。会社、上司の言うことは、ほぼ絶対である。守らなければならないルールというのは確かにあると思う。しかし、状況にかかわらず漠然とルールやマニュアルに従うことの先になにがあるのだろう。
昔、日韓ワールドカップの時に日本代表の監督を務めたフィリップ・トルシエがこう言ったことがある。「日本人は車が通っていないのに赤信号を渡らない。日本人が赤信号を渡らないのは、判断力がないからだ。」トルシエについては、その人格の良し悪しに賛否両論あるが、この発言は日本人の特性についての真理をよくついているように思える。
新大陸を発見した探検家コロンブスの眠るサントドミンゴ大聖堂の横を通りながら、いつの間にかそんなことを考えていた。
日本はいつ新大陸を見つけられるのだろうか。
噴水
before
after
サントドミンゴ大聖堂
※動画をアップしたかったのですが、やり方が分からず出来ませんでした。
2010/12/09
彼らの行方
試合は持ち前の攻撃力で中盤を支配するスペインに対して、オランダが必死に守りカウンターアタックを仕掛けるという展開となった。スペインは得意のパスワークから幾度となくオランダのディフェンス陣を崩しにかかるが、得点チャンスをものにできず、逆にオランダもゴールキーパーと1対1の局面を作り出すも、いずれもスペインのゴールキーパーのスーパーセーブに阻まれるという緊迫した展開が続いた。
私の観戦するテレビルームでは、オランダ選手の警告承知のラフプレーが目立ってくると、スペイン人スタッフ達がスペイン語で大声で言葉を発し出した。その語気の荒々しさからすると、オランダのラフプレーに激怒しているようだった。オランダ人女性もそれに気づいたようで、少し空気が読めてきたのか、熱烈な応援を幾分抑えるようになった。私はスペイン優勢という試合内容に反してオランダが勝つことがないよう一人願った。
共に幾度かの決定的なチャンスをものに出来ないまま延長戦に突入する。延長後半にオランダの選手がが2枚目のイエローカードで退場になり1人少なくなる一方、スペインの選手も足の不調を訴えてフィールドを離れるなど、互いに満身創痍の状態となってきた。PK戦が脳裏にちらつき始めた延長後半残り4分というところでにスペインの選手が右45度の角度からボレーシュート。これがゴールに吸い込まれた。そして、残り時間をスペインがきっちり守りきり、終了の笛と同時にスペインが悲願の初優勝を決めた。
その瞬間、テレビルームではスペインを応援する多くの人の喜びが爆発した。オランダ人女性2人は完全アウェーの状態で、途中から遠慮しながらも最後まで自国を応援するという精神力とも意地ともいえぬものをみせたが、この結果を受け入れたような表情を浮かべ、スペイン人スタッフに「おめでとう」というような言葉をかけた。
良かった。この日に合わせてポルトガルから来た甲斐があった。試合終了後の騒ぎもひと段落すると、隣に座るラトビアの銀行マンに、これから夕飯でも行かないかと誘われた。しかし、初優勝したスペインの町が、人々が、これからどのように喜びを表現するのかを見る、というボーナスが残されている。私はその誘いを丁重に断り、未知なる夜の町へと一人繰り出した。
私の観戦するテレビルームでは、オランダ選手の警告承知のラフプレーが目立ってくると、スペイン人スタッフ達がスペイン語で大声で言葉を発し出した。その語気の荒々しさからすると、オランダのラフプレーに激怒しているようだった。オランダ人女性もそれに気づいたようで、少し空気が読めてきたのか、熱烈な応援を幾分抑えるようになった。私はスペイン優勢という試合内容に反してオランダが勝つことがないよう一人願った。
共に幾度かの決定的なチャンスをものに出来ないまま延長戦に突入する。延長後半にオランダの選手がが2枚目のイエローカードで退場になり1人少なくなる一方、スペインの選手も足の不調を訴えてフィールドを離れるなど、互いに満身創痍の状態となってきた。PK戦が脳裏にちらつき始めた延長後半残り4分というところでにスペインの選手が右45度の角度からボレーシュート。これがゴールに吸い込まれた。そして、残り時間をスペインがきっちり守りきり、終了の笛と同時にスペインが悲願の初優勝を決めた。
その瞬間、テレビルームではスペインを応援する多くの人の喜びが爆発した。オランダ人女性2人は完全アウェーの状態で、途中から遠慮しながらも最後まで自国を応援するという精神力とも意地ともいえぬものをみせたが、この結果を受け入れたような表情を浮かべ、スペイン人スタッフに「おめでとう」というような言葉をかけた。
良かった。この日に合わせてポルトガルから来た甲斐があった。試合終了後の騒ぎもひと段落すると、隣に座るラトビアの銀行マンに、これから夕飯でも行かないかと誘われた。しかし、初優勝したスペインの町が、人々が、これからどのように喜びを表現するのかを見る、というボーナスが残されている。私はその誘いを丁重に断り、未知なる夜の町へと一人繰り出した。
2010/12/02
奴らの流儀
カルボナーララーメンで腹ごしらえをした。商店でビールを調達した。後は会場で観戦態勢を整えるのみだ。
観戦会場であるホステルのテレビルームに入ると、想像より部屋のスペースが狭く、席も10人分くらいしかなかった。でも早めに来たせいか席は空いており、空いた席に腰を下ろし早速ビールを飲んだ。周りに座る人と軽く話をする。私の隣に一人で座る25歳くらいの若い男はラトビアの銀行員だった。どうりで英語をうまく話す。どこの国でも銀行員たるもの高学歴なのだ。英語のレベルが高い人と話をすると、どうしても相槌することが多くなってしまう。ただ、相槌する内容のほとんどは理解できてない。
開始時間が迫り、テレビ中継のボルテージも上がってきた。宿の従業員もオーナーも仕事をほったらかしてテレビルームに集まってきた。スペイン人の従業員は、そこに集まった外国人旅行者に、どこの国からきたの?と聞いてまわっていた。そうしたやりとりを見ていると、驚くべきことが発覚した。私の左隣に座る2人の欧米人らしき女性がオランダ人だったのだ。大丈夫だろうか?今日の決勝戦はスペイン×オランダだぞ。
そうした私の懸念をよそに、いよいよ決勝戦が始まった。スペイン人の従業員は両手を合わせ、祈るようにVAMO! VAMO!(行け!)と叫ぶ。当然だろう。初優勝が懸かっているのだ。レアル・マドリードとFCバルセロナという超ビッククラブを有するこのサッカー大国が今まで優勝しなかったのが不思議なくらいだ。スペイン人々がこれまでどれだけ優勝を渇望してきたことか。そんなことを考えていると、試合の序盤にオランダが最初のチャンスを得る。すると左隣のオランダ人女性2人が、「フォー!!!」と叫び盛大に応援しはじめた。
ラリってるのか?
この完全アウェーの状態で自国をこれほど熱烈に応援するとは。いや、さすがだ。さすがガリバー王国だ。態度までデカイ。でも大丈夫か?このサッカーに熱いスペインでこんなことしたら、えらい目に遭うぞ。オランダ大使館にでも行って観戦しないと危ないのでは?
エジプトのカイロで会った駐在員の浜さんの話を思い出す。
エジプトもサッカー熱が高い国だが、今回のワールドカップのアフリカ予選でプレーオフの末、あと一歩のところでアルジェリアかどこかに敗れてしまった。その時、カイロにあるアルジェリア大使館が投石にあったのなんだと大変だったらしい。
もしオランダが勝ったらオランダ大使館もやばいか?オランダ人女性よ、悪いことはいわない。ここで観るなら、せめて静かに観戦するのだ。そんな私の心配をよそに、今度はオランダの方がピンチを招くと、「キャー!!!」と悲鳴をあげる。そんなオランダ人女性の奇声とスペインを応援する人たちの喚声が響くなか一進一退の攻防が続き、試合は終盤に近づいていった。
観戦会場であるホステルのテレビルームに入ると、想像より部屋のスペースが狭く、席も10人分くらいしかなかった。でも早めに来たせいか席は空いており、空いた席に腰を下ろし早速ビールを飲んだ。周りに座る人と軽く話をする。私の隣に一人で座る25歳くらいの若い男はラトビアの銀行員だった。どうりで英語をうまく話す。どこの国でも銀行員たるもの高学歴なのだ。英語のレベルが高い人と話をすると、どうしても相槌することが多くなってしまう。ただ、相槌する内容のほとんどは理解できてない。
開始時間が迫り、テレビ中継のボルテージも上がってきた。宿の従業員もオーナーも仕事をほったらかしてテレビルームに集まってきた。スペイン人の従業員は、そこに集まった外国人旅行者に、どこの国からきたの?と聞いてまわっていた。そうしたやりとりを見ていると、驚くべきことが発覚した。私の左隣に座る2人の欧米人らしき女性がオランダ人だったのだ。大丈夫だろうか?今日の決勝戦はスペイン×オランダだぞ。
そうした私の懸念をよそに、いよいよ決勝戦が始まった。スペイン人の従業員は両手を合わせ、祈るようにVAMO! VAMO!(行け!)と叫ぶ。当然だろう。初優勝が懸かっているのだ。レアル・マドリードとFCバルセロナという超ビッククラブを有するこのサッカー大国が今まで優勝しなかったのが不思議なくらいだ。スペイン人々がこれまでどれだけ優勝を渇望してきたことか。そんなことを考えていると、試合の序盤にオランダが最初のチャンスを得る。すると左隣のオランダ人女性2人が、「フォー!!!」と叫び盛大に応援しはじめた。
ラリってるのか?
この完全アウェーの状態で自国をこれほど熱烈に応援するとは。いや、さすがだ。さすがガリバー王国だ。態度までデカイ。でも大丈夫か?このサッカーに熱いスペインでこんなことしたら、えらい目に遭うぞ。オランダ大使館にでも行って観戦しないと危ないのでは?
エジプトのカイロで会った駐在員の浜さんの話を思い出す。
エジプトもサッカー熱が高い国だが、今回のワールドカップのアフリカ予選でプレーオフの末、あと一歩のところでアルジェリアかどこかに敗れてしまった。その時、カイロにあるアルジェリア大使館が投石にあったのなんだと大変だったらしい。
もしオランダが勝ったらオランダ大使館もやばいか?オランダ人女性よ、悪いことはいわない。ここで観るなら、せめて静かに観戦するのだ。そんな私の心配をよそに、今度はオランダの方がピンチを招くと、「キャー!!!」と悲鳴をあげる。そんなオランダ人女性の奇声とスペインを応援する人たちの喚声が響くなか一進一退の攻防が続き、試合は終盤に近づいていった。
2010/10/21
腹が減っては戦は観れぬ
ワールドカップ当日にスペインに着いた。さて次は、どこで、どのように決勝戦をテレビ観戦するかということが問題だ。スペインにはBAR(バール)というカフェ兼バーが日本のコンビニのように街のかしこに点在しており、そのBARならどこでも人気スポーツを流す大型テレビが設置されている。なので、そのBARででも決勝戦を観戦しようと思っていた。しかし、チェックインしたホステルの掲示板にはこうも書かれていた。
「当ホステルにテレビはありませんが、同系列のホステルのテレビルームでワールドカップ決勝の観戦会を行うので、是非足をお運びください。ただし、もちろんスペインを応援しますよね?」
うむ、なかなかいいじゃないか。酒を買ってホステルで飲めば、BARより費用が抑えられるし。
早めにシャワーを浴び、早めの夕食としてポルトガルから持ち込んだカルボナーララーメンを調理して食べた。それにしても、ヨーロッパに入り幾つかの国で見つけては食してきたが、Knorrのカルボナーララーメン、かなりやるぞ。どうして日本でも発売しないのだろう。絶対売れる気がするのに。Knorrは日本マーケットでリスクを冒さないのだろうか?今回のワールドカップで大ブレークした本田圭佑はこう言ってたぞ。
「リスクのない人生なんて、逆にリスクだ」.
中田みたいにいいこと言うな。世界で活躍するには、日本人のもつ共通の価値観を打ち破る必要があるのかもしれない。
でも、カルボナーララーメンが旨いのなら、逆の発想で、味噌スパゲッティ、とんこつスパゲッティなんてのも悪くないのではないか?食べ物ももっと冒険すればいいのにな。またしてもそんなくだらないことを考えてるうちに、決戦の時間がちかづいた。
鍋から直接食べてると、「ワイルドですね」とよく言われるが、2袋調理して食べるから、それを入れる器がないだけ。
「当ホステルにテレビはありませんが、同系列のホステルのテレビルームでワールドカップ決勝の観戦会を行うので、是非足をお運びください。ただし、もちろんスペインを応援しますよね?」
うむ、なかなかいいじゃないか。酒を買ってホステルで飲めば、BARより費用が抑えられるし。
早めにシャワーを浴び、早めの夕食としてポルトガルから持ち込んだカルボナーララーメンを調理して食べた。それにしても、ヨーロッパに入り幾つかの国で見つけては食してきたが、Knorrのカルボナーララーメン、かなりやるぞ。どうして日本でも発売しないのだろう。絶対売れる気がするのに。Knorrは日本マーケットでリスクを冒さないのだろうか?今回のワールドカップで大ブレークした本田圭佑はこう言ってたぞ。
「リスクのない人生なんて、逆にリスクだ」.
中田みたいにいいこと言うな。世界で活躍するには、日本人のもつ共通の価値観を打ち破る必要があるのかもしれない。
でも、カルボナーララーメンが旨いのなら、逆の発想で、味噌スパゲッティ、とんこつスパゲッティなんてのも悪くないのではないか?食べ物ももっと冒険すればいいのにな。またしてもそんなくだらないことを考えてるうちに、決戦の時間がちかづいた。
鍋から直接食べてると、「ワイルドですね」とよく言われるが、2袋調理して食べるから、それを入れる器がないだけ。
2010/10/14
嵐の前の静けさ
ポルトガル、良かったぞ。また一つ、思い出深い国ができた。スペイン行きのバスのなかでそんな感傷にふけり外を眺めていた。もし、スペインが優勝したなら、どうしようか?とにかく誰かに自慢したい。大人にあからさまに自慢するのは、みっともない。では、将来の孫にでもこう自慢しようか。「じいちゃんはな、スペインがワールドカップで初めて優勝した時に、スペインに居たんだぞ。」
ん、孫?
孫の前に子供だろ。子供の前に嫁だろ。嫁の前に彼女だろ。彼女の前に仕事だろ。ひとつひとつ突破していかなくてはならない壁を思い浮かべると、日本代表が優勝するのと同じくらい夢物語のようだと思えてしまう。はたして、未来に孫は現れるのだろうか?
そんなくだらないことを考えているうちに、13時半にバスは着いた。ここはスペイン第4の都市、アンダルシア州の州都、セビージャ。ワールドカップ決勝を観戦する舞台として、不足はない。バスターミナルから、事前に調べておいた安ホステルに向かう。しかし、ワールドカップの決勝当日だというのに、街に車も人通りもほとんどない。数分後、そのわけに気づかされる。暑い、とにかく暑い。気温が何度あるのかわからないが日差しがポルトガルの1.5倍増しだ。そうだ、この暑さだ、人が居ないのは、シエスタしてるためだろう。きたるべき決戦の刻に合わせて、エネルギーを充電してるのだ。
安ホステルにたどり着き、ドミトリーにチェックインすると、欧米人のバックパッカーどもが、ほとんど裸の状態でベットの上でへたりながら昼寝していた。そして、そのホステルの情報掲示板にはこう書かれていた。
「Have a siesta in the hottest hours」
暑い時間に出歩いてんじゃねえぞ、と。
42℃、静まる街。
ん、孫?
孫の前に子供だろ。子供の前に嫁だろ。嫁の前に彼女だろ。彼女の前に仕事だろ。ひとつひとつ突破していかなくてはならない壁を思い浮かべると、日本代表が優勝するのと同じくらい夢物語のようだと思えてしまう。はたして、未来に孫は現れるのだろうか?
そんなくだらないことを考えているうちに、13時半にバスは着いた。ここはスペイン第4の都市、アンダルシア州の州都、セビージャ。ワールドカップ決勝を観戦する舞台として、不足はない。バスターミナルから、事前に調べておいた安ホステルに向かう。しかし、ワールドカップの決勝当日だというのに、街に車も人通りもほとんどない。数分後、そのわけに気づかされる。暑い、とにかく暑い。気温が何度あるのかわからないが日差しがポルトガルの1.5倍増しだ。そうだ、この暑さだ、人が居ないのは、シエスタしてるためだろう。きたるべき決戦の刻に合わせて、エネルギーを充電してるのだ。
安ホステルにたどり着き、ドミトリーにチェックインすると、欧米人のバックパッカーどもが、ほとんど裸の状態でベットの上でへたりながら昼寝していた。そして、そのホステルの情報掲示板にはこう書かれていた。
「Have a siesta in the hottest hours」
暑い時間に出歩いてんじゃねえぞ、と。
42℃、静まる街。
2010/10/10
朝の光
2010年7月10日、ポルトガル南西部に位置するラゴス。
7月28日にマドリードから日本に飛ぶ飛行機のチケットは、すでにインターネットで予約済みだった。ポルトガルの主要都市からマドリードまでは、バスで8~9時間ともうすぐそこという距離だ。日程にもアクセスにも余裕ある状況にあって、いつ、どこへ移動しても、しなくても、大した問題はなかった。
ラゴスはバカンスシーズンには外国から多くの観光客が集まるリゾート地。どこの宿も宿泊代は高かったが、運よく「貸し部屋」をしている民家を見つけ、そこに安く泊まることができた。その民家には、ゲスト用のシャワールームにバスタブがあった。これが素晴らしかった。これまで泊まり歩いた安宿にはバスタブなどなく、たとえあったとしても、お湯を溜めて入れるというような代物ではなかった。この旅でお湯に浸かったことは、インドのラージギルという町で入った温泉の一度きりだった。だから、肩までお湯に浸かれるということが、どんな美味しい料理を食べるよりも嬉しかった。また、この民家ではキッチンも利用できた。しかも、家主と共用のものではなく、ゲスト専用のキッチンだ。キッチンには、冷蔵庫だけではなく、電子レンジも完備されている。調理道具も全てが新品同様にきれいだ。ゲストは私一人しかいないので、キッチンを独占できた。
ゆっくり風呂に浸かり、温泉気分を味わった後、キッチンでお気に入りのカルボナーララーメンを作り、屋上のテラスに運ぶ。テラスに上がりラーメンと一緒にこれまたお気に入りのサグレスビールを胃に流し込む。ヨーロッパでは日暮れの時間が21時頃と遅いため、夕食をとりながらテラスから海と夕日を拝むことができる。そんな風景と食事と軽い酔いに満足しながら、街歩きと海水浴で疲れた体を癒す。
「極楽浄土」とはこのことだろうか。
そんな日々を3日程送り、ラゴスを離れるか否か迷っていた。ラゴスにはもう少しいたい気がした。このような好条件の所に泊まれることはなかなかないし、もう少しあの透きとおるような海で泳ぎたかった。しかし、翌7月11日はサッカーワールドカップ南アフリカ大会の決勝がある。そしてその対戦カードは、オランダとスペインときた。ワールドカップ決勝をその開催地で観戦することは、なかなかできることではない。しかしまた、ワールドカップ決勝をワールドカップを優勝するであろう国で観ることもそう簡単にはできない。
スペインが優勝するかどうかなどわからないし、ラゴスに後ろ髪を引かれる思いもする。だがやはり、スペインに賭けたい。なにせ、あの「情熱の国」なのだ。私は、ラゴスという土地に少し未練を残しながらも、翌日早朝、息を呑むような輝く朝日に見送られ、スペインに向かった。
民家の貸し部屋(一泊18ユーロ)
テラスでの夕食
テラスからの朝日
7月28日にマドリードから日本に飛ぶ飛行機のチケットは、すでにインターネットで予約済みだった。ポルトガルの主要都市からマドリードまでは、バスで8~9時間ともうすぐそこという距離だ。日程にもアクセスにも余裕ある状況にあって、いつ、どこへ移動しても、しなくても、大した問題はなかった。
ラゴスはバカンスシーズンには外国から多くの観光客が集まるリゾート地。どこの宿も宿泊代は高かったが、運よく「貸し部屋」をしている民家を見つけ、そこに安く泊まることができた。その民家には、ゲスト用のシャワールームにバスタブがあった。これが素晴らしかった。これまで泊まり歩いた安宿にはバスタブなどなく、たとえあったとしても、お湯を溜めて入れるというような代物ではなかった。この旅でお湯に浸かったことは、インドのラージギルという町で入った温泉の一度きりだった。だから、肩までお湯に浸かれるということが、どんな美味しい料理を食べるよりも嬉しかった。また、この民家ではキッチンも利用できた。しかも、家主と共用のものではなく、ゲスト専用のキッチンだ。キッチンには、冷蔵庫だけではなく、電子レンジも完備されている。調理道具も全てが新品同様にきれいだ。ゲストは私一人しかいないので、キッチンを独占できた。
ゆっくり風呂に浸かり、温泉気分を味わった後、キッチンでお気に入りのカルボナーララーメンを作り、屋上のテラスに運ぶ。テラスに上がりラーメンと一緒にこれまたお気に入りのサグレスビールを胃に流し込む。ヨーロッパでは日暮れの時間が21時頃と遅いため、夕食をとりながらテラスから海と夕日を拝むことができる。そんな風景と食事と軽い酔いに満足しながら、街歩きと海水浴で疲れた体を癒す。
「極楽浄土」とはこのことだろうか。
そんな日々を3日程送り、ラゴスを離れるか否か迷っていた。ラゴスにはもう少しいたい気がした。このような好条件の所に泊まれることはなかなかないし、もう少しあの透きとおるような海で泳ぎたかった。しかし、翌7月11日はサッカーワールドカップ南アフリカ大会の決勝がある。そしてその対戦カードは、オランダとスペインときた。ワールドカップ決勝をその開催地で観戦することは、なかなかできることではない。しかしまた、ワールドカップ決勝をワールドカップを優勝するであろう国で観ることもそう簡単にはできない。
スペインが優勝するかどうかなどわからないし、ラゴスに後ろ髪を引かれる思いもする。だがやはり、スペインに賭けたい。なにせ、あの「情熱の国」なのだ。私は、ラゴスという土地に少し未練を残しながらも、翌日早朝、息を呑むような輝く朝日に見送られ、スペインに向かった。
民家の貸し部屋(一泊18ユーロ)
テラスでの夕食
テラスからの朝日
2010/10/07
有為から無為へ
ある朝、目を覚ました時、これはもうぐずぐずしていられない、と思ってしまったのだ。
私はインドのデリーにいて、これから南下してゴアに行こうか、北上してカシミールに向かおうか迷っていた。
ゴアにはヒッピーたちの楽園があると聞かされていた。それがどのような種類の楽園なのかは定かでなかったが、少なくとも、輝くばかりのゴアの海沿いの土地では、デリーやカルカッタの何分の一かの金で楽に暮らすことができるという話に嘘はないようだった。
一方、カシミールはインドの高級避暑地でもあり、ゴアのような安上がりの生活は期待できないが、なによりも、雪を頂いたヒマラヤの高峰群を間近に望むことができるというだけで心ひかれるところのある土地だった。
<黄金のゴアにしようか、それとも白いカシミールにしようか・・・・・>
私は迷いながら、しかしいつまでもその迷いを宙吊りにしたままデリーにとどまり、その日その日を無為に過ごしていた。
(「深夜特急」始まりの部分より)
ご無沙汰しています。日本に戻り2ヶ月以上が経ちました。
このブログも一度区切りを打ちましたが、ポルトガルからスペインのマドリードに折り返すまでの旅の終盤を少し書いていこうと思います。
私はインドのデリーにいて、これから南下してゴアに行こうか、北上してカシミールに向かおうか迷っていた。
ゴアにはヒッピーたちの楽園があると聞かされていた。それがどのような種類の楽園なのかは定かでなかったが、少なくとも、輝くばかりのゴアの海沿いの土地では、デリーやカルカッタの何分の一かの金で楽に暮らすことができるという話に嘘はないようだった。
一方、カシミールはインドの高級避暑地でもあり、ゴアのような安上がりの生活は期待できないが、なによりも、雪を頂いたヒマラヤの高峰群を間近に望むことができるというだけで心ひかれるところのある土地だった。
<黄金のゴアにしようか、それとも白いカシミールにしようか・・・・・>
私は迷いながら、しかしいつまでもその迷いを宙吊りにしたままデリーにとどまり、その日その日を無為に過ごしていた。
(「深夜特急」始まりの部分より)
ご無沙汰しています。日本に戻り2ヶ月以上が経ちました。
このブログも一度区切りを打ちましたが、ポルトガルからスペインのマドリードに折り返すまでの旅の終盤を少し書いていこうと思います。
2010/07/27
日本ではなく、JAPANへ
ポルトガルで旅に一区切りつけ、日本までの航空券を探すと、スペインの首都、マドリードからの安いチケットが見つかった。出発日は少し先だったが、これは闘牛、フラメンコの発祥の地で、最もスペイン的といわれるアンダルシア地方を見て帰れ、という旅の神様からのお告げだと勝手に解釈し、最後、アンダルシア地方を旅した。
地中海を望むビーチリゾートでゆっくりして、旅を総括したいという思いがあったのですが、少なからず移動をして新たなものを目にする、ということを続けている限り、「旅を整理する」ということはできない、というのが今の感想です。
これから日本に帰るわけですが、日本という「内」から飛び出し、海外という「外」に出て、こうして旅を続けてきたことで、今、日本が「内」という感覚ではなくなっているように思えます。実はこれが旅に出る前の「ねらい」の一つでもありました。つまり、日本を「日本」ではなく「JAPAN」いう目で見れるのではないか、ということです。それは数日間のことかもしれませんが、その時間を大切にして、「JAPAN」を見てみたいと思います。
また、少々馬鹿げたことではありますが、日本に着いたらこれまでの旅でやってきたことと同じように、外国人のふりをして道を尋ね、安宿を探す、といったことを東京あたりでやってみたいな、なんて考えてもいます。
それでは、「JAPAN」に行って、納豆でもゆっくり食べて、しばらくゆっくりしたいと思います。ポルトガル以降の旅についても書きたいと思いますが、どうなるかわからないので、とりあえず、このブログもここで一区切りということで、
皆さん、本当にありがとうございました。
Muchas Gracias.
地中海を望むビーチリゾートでゆっくりして、旅を総括したいという思いがあったのですが、少なからず移動をして新たなものを目にする、ということを続けている限り、「旅を整理する」ということはできない、というのが今の感想です。
これから日本に帰るわけですが、日本という「内」から飛び出し、海外という「外」に出て、こうして旅を続けてきたことで、今、日本が「内」という感覚ではなくなっているように思えます。実はこれが旅に出る前の「ねらい」の一つでもありました。つまり、日本を「日本」ではなく「JAPAN」いう目で見れるのではないか、ということです。それは数日間のことかもしれませんが、その時間を大切にして、「JAPAN」を見てみたいと思います。
また、少々馬鹿げたことではありますが、日本に着いたらこれまでの旅でやってきたことと同じように、外国人のふりをして道を尋ね、安宿を探す、といったことを東京あたりでやってみたいな、なんて考えてもいます。
それでは、「JAPAN」に行って、納豆でもゆっくり食べて、しばらくゆっくりしたいと思います。ポルトガル以降の旅についても書きたいと思いますが、どうなるかわからないので、とりあえず、このブログもここで一区切りということで、
皆さん、本当にありがとうございました。
Muchas Gracias.
2010/07/16
Where is your final destination?
あれは確か、マケドニアの首都、スコピエでのことだったか。その時私は、ユーロからマケドニアの現地通貨に両替するために、デパートの内部にある両替所に行った。その両替所の店員に両替を頼むと、パスポートの提示を求められたので、パスポートを渡した。するとその店員は、私のパスポートの査証のページをペラペラめくり、無数の入出国のスタンプを見て、長く旅してるのだということを悟ると、私にこう言った。
「Where is your final destination?」
両替所の店員にこんな気の利いたことを言ってくる人はいなかったので驚いたが、私もすかさずこう返した。
「The end of the world」 かっこよく言うと「この世の果て」までと。
ポルトガルは、その国名の由来となった町、ポルト、ポルトガル人の誰もがお勧めする町、コインブラ、「7つの丘の街」と呼ばれる坂の多い首都、リスボン、歴史的な王宮、宮殿、城跡の残るシントラ、ユーラシア大陸最西端のロカ岬、夏には多くの観光客が集まるリゾート地、ラゴス、ユーラシア大陸最南西端のサグレスを訪れた。
ラゴスという町はリゾート地であるためホテルをはじめとする宿泊施設がも軒並み高い所ばかりだった。しかし、幸運にも「貸し部屋」をしている民家を見つけ、そこに安く滞在することができた。そのラゴスの海で久しぶりに泳いだ。エジプトのダハブ以来の海に興奮しすぎて、泳ぎ始めに若干溺れそうになってしまった。。。
夕方、民家に戻り自分で調理した料理とビールを飲みながら、民家のテラスでゆったりした気分で海と夕日が沈んでいく景色を眺めた。そうして優雅な時間を過ごしていると、この旅の終着地はここだな、と思うものがあった。
また、サグレスの岬もよかった。ロカ岬より知名度は低いが、サグレス岬には、見たことのないような植物が生き、断崖絶壁の崖があり、美しい海が広がり、まさに、「この世の果て」のような場所だった。
ポルトガルはスペインと比べると、どこか田舎的で、町も人も落ち着いている感じがした。そこに少し物足りなさを感じたりもしたが、ゆったりとした時間が流れるポルトガルは、旅の終わりを迎える旅人にとって最適の地であるのかもしれなかった。
レトロな路面電車が走る、ポルト
ポルトガル人の誰もが絶賛する、コインブラ
ポルトガル版松岡修造がいる、リスボン
ポルトガルの緑多き避暑地、シントラ
ユーラシア大陸最西端、ロカ岬
ポルトガル屈指のリゾート地、ラゴス
この世の果て、サグレス岬
ポルトガルビールシェアナンバー1、サグレスビール(フィーゴが広告塔)
グビ グビ グビ プハ~。ビールが旨い季節がきましたな。
「Where is your final destination?」
両替所の店員にこんな気の利いたことを言ってくる人はいなかったので驚いたが、私もすかさずこう返した。
「The end of the world」 かっこよく言うと「この世の果て」までと。
ポルトガルは、その国名の由来となった町、ポルト、ポルトガル人の誰もがお勧めする町、コインブラ、「7つの丘の街」と呼ばれる坂の多い首都、リスボン、歴史的な王宮、宮殿、城跡の残るシントラ、ユーラシア大陸最西端のロカ岬、夏には多くの観光客が集まるリゾート地、ラゴス、ユーラシア大陸最南西端のサグレスを訪れた。
ラゴスという町はリゾート地であるためホテルをはじめとする宿泊施設がも軒並み高い所ばかりだった。しかし、幸運にも「貸し部屋」をしている民家を見つけ、そこに安く滞在することができた。そのラゴスの海で久しぶりに泳いだ。エジプトのダハブ以来の海に興奮しすぎて、泳ぎ始めに若干溺れそうになってしまった。。。
夕方、民家に戻り自分で調理した料理とビールを飲みながら、民家のテラスでゆったりした気分で海と夕日が沈んでいく景色を眺めた。そうして優雅な時間を過ごしていると、この旅の終着地はここだな、と思うものがあった。
また、サグレスの岬もよかった。ロカ岬より知名度は低いが、サグレス岬には、見たことのないような植物が生き、断崖絶壁の崖があり、美しい海が広がり、まさに、「この世の果て」のような場所だった。
ポルトガルはスペインと比べると、どこか田舎的で、町も人も落ち着いている感じがした。そこに少し物足りなさを感じたりもしたが、ゆったりとした時間が流れるポルトガルは、旅の終わりを迎える旅人にとって最適の地であるのかもしれなかった。
レトロな路面電車が走る、ポルト
ポルトガル人の誰もが絶賛する、コインブラ
ポルトガル版松岡修造がいる、リスボン
ポルトガルの緑多き避暑地、シントラ
ユーラシア大陸最西端、ロカ岬
ポルトガル屈指のリゾート地、ラゴス
この世の果て、サグレス岬
ポルトガルビールシェアナンバー1、サグレスビール(フィーゴが広告塔)
グビ グビ グビ プハ~。ビールが旨い季節がきましたな。
2010/07/08
Ring the bell for someone
おそらく最後になるだろう国、ポルトガルへとやってきた。ポルトガルに来て自分が受けた印象といえば、同じイベリア半島の国なのに、スペインより英語を話せる人が格段に多いということ、どこの町へ行ってもとにかくきつい坂が多いということ、日曜もスーパーマーケットが開いているということ(喜)だろうか。
そしてここ数日、38℃ととにかく暑い日々が続いている。町歩きするのにも1.5リットルのペットボトルを持ち歩かなくてはいけない。ヨーロッパの夏がこんなに暑いものだとは思ってもいなかった。日陰に入ればそこそこ涼しいが、日の下に出ると帽子、サングラス無しでは歩いてられない。普段サングラスなんてものは掛けないが、この日差しの強さには勝てず、H&Mで3ユーロと格安で売っていたサングラスをつい購入してしまった。そう、“してしまった”。なぜなら、このサングラスがかなり似合わなかった。メガネのレンズの部分が異様に大きく、ジョニー・デップが映画で掛けるようなサングラスなのだ。そりゃ似合わない。
ポルトガルに入り最初に訪れたポルトという町で、驚くことがあった。
ポルトに入る前に調べた情報によると、15ユーロ程で泊まれる安いペンションがあるようだったので、そのペンションに行った。すると、そのペンションで日本人の女性が働いていた。あまり突っ込んだ質問はしなかったが、日本で生まれ、ポルトガルで育ち、その後、宿のオーナーであるポルトガル人男性と結婚し、その宿で働いているようだった。
その日本人女性は私に様々な情報を教えてくれた。ポルトという町が世界遺産に登録されていることから、建物の改築から補修までUNESCOによって厳しく管理、統制されていること。したがって、観光客はいいが住む者にとっては面倒なことが多いということ。また、ポルトガルのおいしい料理、おいしいワイン、おすすめの町といったことまで。ポルトガルのガイドブックを持たない私にとっては、実に有難い情報だった。
そして、その宿で数日過ごしたある日、もっと驚くことが起きた。
外に観光に出ようと部屋から階段を降り、宿の受付の前を通ろうとすると、“ひで”がいるではないか。
ひでとの出会いは、中国からベトナムに国境を越へた日まで遡る。その国境を越えるバスに同乗していてたひでは、ベトナムのバス休憩所で私に話しかけてきてくれた。その時、ひでは同い年22歳の“こうへい”と行動を共にしていて、それから先も、ベトナムを南下してカンボジアに入りタイへ抜けるまでのルートが皆同じだったため、行く先々でひでとこうへいと食事や酒を共にした。
特にカンボジアのアンコールワットのある町シェムリアップでは、毎日何十キロも自転車を走らせて遺跡巡りをしては、夜、3ドルで食べ放題の店で食事する、という日々を過ごしたのがとても思い出深い。自分のなかで間違いなくあの時が、この旅における“青春時代”だった。だから、シェムリアップで別れてからも、ひでとこうへいは元気かな、と考えることがよくあった。
その後、偶然にも、ひでとはマレーシアのクアラルンプールで再会し、こうへいとはインドのバラナシで再会した。本当に驚きだった。
そしてなんと、ひでとここユーラシア大陸の西端の国で、二度目の再会を果たすとは。なんていうミラクルだろう。ヴァスコ・ダ・ガマか、フランシスコ・ザビエルか、はたまたルイス・フィーゴの力だろうか。再会後にひでと一緒に町を歩きながら話をするも、驚きの余韻が残り、地に足が着かない感じがした。でもそれは、ひでも同じだったに違いない。
ひではお兄さんの結婚式のため年末年始に一時帰国。その後、カンボジアで学校建設のボランティアをし、歯が欠けるというトラブルに見舞われながらも、旅を再開させ、インド、中近東、モロッコ、スペイン、ポルトガルへと進んできたようだ。この先は、一度スペインに戻り、マドリッド、バルセロナを訪れ、南米に飛ぶらしい。
別れの時、「気をつけて、そして、楽しんで南米を旅してきて」とひでに伝えると、ひでは私に、「旅の最後、気が緩みがちだから気をつけてください」というアドバイスをくれた。さすがは世界の“ひで”だ。終了間際のロスタイムが一番危険な時間帯だということを知っているのだろう。
有難いアドバイスだと思うと共に、ひでの言った“最後”という一言を聞いたとき初めて、この旅がもうすぐ終わるのだということを実感した。
追伸、
永遠に続くと思えた旅ももう終わります。
最後、自分のなかでこの旅をゆっくり整理して、心落ちつけて日本に帰る予定です。 なので近々、最終回となりそうです。
ひでと再会した世界遺産の町、ポルト。
再会後、ATMから現金をパクろうとするひで。(パクってません)
再会後、犬を盗撮するひで。(じゃなくて、ひでを盗撮する俺)
ひでとこうへいと往復120キロを原チャリで走って行った、なつかしのベトナム、ミーソン聖域。
なつかしのベトナム飯、確か全部含めて80円くらい。
そしてここ数日、38℃ととにかく暑い日々が続いている。町歩きするのにも1.5リットルのペットボトルを持ち歩かなくてはいけない。ヨーロッパの夏がこんなに暑いものだとは思ってもいなかった。日陰に入ればそこそこ涼しいが、日の下に出ると帽子、サングラス無しでは歩いてられない。普段サングラスなんてものは掛けないが、この日差しの強さには勝てず、H&Mで3ユーロと格安で売っていたサングラスをつい購入してしまった。そう、“してしまった”。なぜなら、このサングラスがかなり似合わなかった。メガネのレンズの部分が異様に大きく、ジョニー・デップが映画で掛けるようなサングラスなのだ。そりゃ似合わない。
ポルトガルに入り最初に訪れたポルトという町で、驚くことがあった。
ポルトに入る前に調べた情報によると、15ユーロ程で泊まれる安いペンションがあるようだったので、そのペンションに行った。すると、そのペンションで日本人の女性が働いていた。あまり突っ込んだ質問はしなかったが、日本で生まれ、ポルトガルで育ち、その後、宿のオーナーであるポルトガル人男性と結婚し、その宿で働いているようだった。
その日本人女性は私に様々な情報を教えてくれた。ポルトという町が世界遺産に登録されていることから、建物の改築から補修までUNESCOによって厳しく管理、統制されていること。したがって、観光客はいいが住む者にとっては面倒なことが多いということ。また、ポルトガルのおいしい料理、おいしいワイン、おすすめの町といったことまで。ポルトガルのガイドブックを持たない私にとっては、実に有難い情報だった。
そして、その宿で数日過ごしたある日、もっと驚くことが起きた。
外に観光に出ようと部屋から階段を降り、宿の受付の前を通ろうとすると、“ひで”がいるではないか。
ひでとの出会いは、中国からベトナムに国境を越へた日まで遡る。その国境を越えるバスに同乗していてたひでは、ベトナムのバス休憩所で私に話しかけてきてくれた。その時、ひでは同い年22歳の“こうへい”と行動を共にしていて、それから先も、ベトナムを南下してカンボジアに入りタイへ抜けるまでのルートが皆同じだったため、行く先々でひでとこうへいと食事や酒を共にした。
特にカンボジアのアンコールワットのある町シェムリアップでは、毎日何十キロも自転車を走らせて遺跡巡りをしては、夜、3ドルで食べ放題の店で食事する、という日々を過ごしたのがとても思い出深い。自分のなかで間違いなくあの時が、この旅における“青春時代”だった。だから、シェムリアップで別れてからも、ひでとこうへいは元気かな、と考えることがよくあった。
その後、偶然にも、ひでとはマレーシアのクアラルンプールで再会し、こうへいとはインドのバラナシで再会した。本当に驚きだった。
そしてなんと、ひでとここユーラシア大陸の西端の国で、二度目の再会を果たすとは。なんていうミラクルだろう。ヴァスコ・ダ・ガマか、フランシスコ・ザビエルか、はたまたルイス・フィーゴの力だろうか。再会後にひでと一緒に町を歩きながら話をするも、驚きの余韻が残り、地に足が着かない感じがした。でもそれは、ひでも同じだったに違いない。
ひではお兄さんの結婚式のため年末年始に一時帰国。その後、カンボジアで学校建設のボランティアをし、歯が欠けるというトラブルに見舞われながらも、旅を再開させ、インド、中近東、モロッコ、スペイン、ポルトガルへと進んできたようだ。この先は、一度スペインに戻り、マドリッド、バルセロナを訪れ、南米に飛ぶらしい。
別れの時、「気をつけて、そして、楽しんで南米を旅してきて」とひでに伝えると、ひでは私に、「旅の最後、気が緩みがちだから気をつけてください」というアドバイスをくれた。さすがは世界の“ひで”だ。終了間際のロスタイムが一番危険な時間帯だということを知っているのだろう。
有難いアドバイスだと思うと共に、ひでの言った“最後”という一言を聞いたとき初めて、この旅がもうすぐ終わるのだということを実感した。
追伸、
永遠に続くと思えた旅ももう終わります。
最後、自分のなかでこの旅をゆっくり整理して、心落ちつけて日本に帰る予定です。 なので近々、最終回となりそうです。
ひでと再会した世界遺産の町、ポルト。
再会後、ATMから現金をパクろうとするひで。(パクってません)
再会後、犬を盗撮するひで。(じゃなくて、ひでを盗撮する俺)
ひでとこうへいと往復120キロを原チャリで走って行った、なつかしのベトナム、ミーソン聖域。
なつかしのベトナム飯、確か全部含めて80円くらい。
2010/06/24
Between calm and passion
バルセロナは本当に楽しかった。サグラダ・ファミリア、ピカソ美術館、闘牛、フラメンコ、美しい海あり、自然豊富な山もある。とりわけ、ガウディの建築が気にいった。町中にポツンとガウディの建築があったりするのだが、一目見てすぐにそれとわかる。その建築様式を言葉でどう表現すればよいかわからないが、おとぎ話や夢に出てくるような建物だった。夜寝る時になっても興奮はおさまらなかったらしく、疲れているのになかなか眠れなかった。
その結果→免疫力がおち→風邪をひく
スペインには「シエスタ」という午後の休憩時間がある。だいたい13時~16時まで店を閉め、人々は昼寝や休憩をするのだ。だが私は休むことなく動き回ってしまった。だから、情熱切れして体調を壊したのだろう。シエスタしておけばよかった。
情熱はシエスタなくしてあらず。
スペインの情熱の秘密が少しわかった気がした。
バルセロナを後にし、次にビルバオという町に移動すると、私の体だけではなく相棒のデジタルカメラまで壊れてしまった。持ち主のおかしな情熱に付き合いきれなくなったのだろう。そして翌々日、日本がカメルーンを撃破した。なんの因果関係もないけど、カメだけつながった。
風邪が治らず、ビルバオの宿で寝込む。外はすごい雨だ。だが、私には行かなくてはならない所がある。それは、
スーパーマーケット。
スペインの物価がこれまでの国より高いことは、前に書いた。宿代は何とか15ユーロ前後でおさまるが、外の飯が高いのだ。その辺のレストランで食事でもしたら、10ユーロはふっ飛んでしまう。これは長期旅行者にすれば死活問題である。なので、スーパーで買い物をして、宿でなんやかんや調理して食べる。そうすれは、2~3ユーロでおさまる。冷蔵庫がないからストックということができない。だから、毎日スーパーに通う。その辺の主婦よりスーパーに通ってるだろう。スーパーの連続出場記録を更新中かもしれない。
"カル・リプケン"も"鉄人衣笠"も"金本"もビックリだろう。ひょっとしたら対談の申し込みがあるかもしれない。
ただ、正直言うと、どこの町のどこのスーパーも日曜は休みだから、日曜だけは行けないのだが。それでも最近、バックパックより買い物カゴを持っている時間の方が長い気がする。買い物も慣れたものだ。
あらっこの店、ニンジンのばら売りしてないじゃない。(主婦風)
問:どうする?
答:スーパーマーケットはしご。
上司:おい、ムラタ、二軒目行くぞ。
ム:へい、山川部長。お次はどちらで?
ん~、だいぶ話が逸れてしまった。
軌道修正が困難と判断するので、今回はこのへんで。
スペインの夢⑤ゲッテンハイム美術館にいく(ビルバオ)
スペインの夢⑥リーガ・エスパニョーラをみる(ビルバオVSバレンシア)
スペインの夢⑦スペインで一番美しいステンドグラスをみる(レオン大聖堂)
スペインの夢⑧学生の町で学生気分を味わう(サルマンカ)
その結果→免疫力がおち→風邪をひく
スペインには「シエスタ」という午後の休憩時間がある。だいたい13時~16時まで店を閉め、人々は昼寝や休憩をするのだ。だが私は休むことなく動き回ってしまった。だから、情熱切れして体調を壊したのだろう。シエスタしておけばよかった。
情熱はシエスタなくしてあらず。
スペインの情熱の秘密が少しわかった気がした。
バルセロナを後にし、次にビルバオという町に移動すると、私の体だけではなく相棒のデジタルカメラまで壊れてしまった。持ち主のおかしな情熱に付き合いきれなくなったのだろう。そして翌々日、日本がカメルーンを撃破した。なんの因果関係もないけど、カメだけつながった。
風邪が治らず、ビルバオの宿で寝込む。外はすごい雨だ。だが、私には行かなくてはならない所がある。それは、
スーパーマーケット。
スペインの物価がこれまでの国より高いことは、前に書いた。宿代は何とか15ユーロ前後でおさまるが、外の飯が高いのだ。その辺のレストランで食事でもしたら、10ユーロはふっ飛んでしまう。これは長期旅行者にすれば死活問題である。なので、スーパーで買い物をして、宿でなんやかんや調理して食べる。そうすれは、2~3ユーロでおさまる。冷蔵庫がないからストックということができない。だから、毎日スーパーに通う。その辺の主婦よりスーパーに通ってるだろう。スーパーの連続出場記録を更新中かもしれない。
"カル・リプケン"も"鉄人衣笠"も"金本"もビックリだろう。ひょっとしたら対談の申し込みがあるかもしれない。
ただ、正直言うと、どこの町のどこのスーパーも日曜は休みだから、日曜だけは行けないのだが。それでも最近、バックパックより買い物カゴを持っている時間の方が長い気がする。買い物も慣れたものだ。
あらっこの店、ニンジンのばら売りしてないじゃない。(主婦風)
問:どうする?
答:スーパーマーケットはしご。
上司:おい、ムラタ、二軒目行くぞ。
ム:へい、山川部長。お次はどちらで?
ん~、だいぶ話が逸れてしまった。
軌道修正が困難と判断するので、今回はこのへんで。
スペインの夢⑤ゲッテンハイム美術館にいく(ビルバオ)
スペインの夢⑥リーガ・エスパニョーラをみる(ビルバオVSバレンシア)
スペインの夢⑦スペインで一番美しいステンドグラスをみる(レオン大聖堂)
スペインの夢⑧学生の町で学生気分を味わう(サルマンカ)
2010/06/11
Travelers high
チェコの後は、ドイツ、オーストリア、フランス、スペインと移動してきた。一見、壮大な旅に思えるかもしれないが、まあまあだろう。バスでチェコからスペインまで一気にきた。30時間の移動はこの旅の最長移動記録かもしれない。ちなみに高校生の頃、学校から家路に着く電車の中で眠りこけ、終点、福島のいわきまで行ってしまったことがある。茨城は、南に千葉、西に栃木、北に福島、東に太平洋なのである。茨城に無知な方は覚えておいてほしい。
チェコは誠にいい国だった。7ユーロでプール・サウナ付きの宿に泊まれたし、4ユーロで中華食べ放題の店を見つけたし、クラシックコンサートを観れたし、チェコの新首相に遭遇したし。東欧はローコストハイクオリティの旅ができる。詳細は、近日公開予定(帰って暇ができたら・・・)、“東欧を月600ユーロで旅する”をご覧頂きたい。ヨーロッパをガイドブックを参考にして旅する時代は終わりを迎えつつある。これからはデータトラベルの時代。
さて、30時間のバス移動を終え、スペインのバルセロナに着いた。インフォメーションセンターで目的の宿までの行き方を聞き、昼過ぎにようやく宿に辿り着いた。シャワーを浴びた後、宿でゆっくり休もうと思っていたが、元気がみなぎってきて街に出たくなった。長距離移動を終えたばかりなのに、なんなんだ?スペインのシャワーは情熱入りなのか?
街に出、通りを歩いていると、地元民であろうお母さんが服を汚してしまった子供にクレームをつけている。おお。FCバルセロナのシャビが、審判にクレームをつけるような情熱的なジェスチャーだ。
それから、ガウディの建築、サグラダ・ファミリアに向かおうとするも、道がよくわからない。通りのオープンカフェの店員に道を尋ねた。すると、サグラダ・ファミリアの方向を指し、熱心に教えてくれる(スペイン語だけど)。おお。FCバルセロナのプジョルが前線の選手に指示を出すような情熱的なジェスチャーだ。
バルセロナの街歩きを終え、宿に戻ろうとメトロの駅を探した。すぐに見つからなかったので通りにいたおじさんにメトロの駅を尋ねた。すると、メトロの駅の場所を教えてくれるだけでなく、そこからどこの駅へ行きたいのかを私に聞き、目的の駅まで何番のメトロに乗って、どこで何番のメトロに乗り換えればいいかまで教えてくれる。おお。FCバルセロナのグアルディオラ監督のような的確で情熱的な指示だ。
メトロに乗り込み、車内で立っていた。すると、前に立っている女性の携帯が鳴った。トゥルル~トゥトゥトゥトゥトゥトゥ トゥルル~。 おお。携帯の着信音まで情熱的だ。ちょっと、暴れん坊将軍のテーマ曲みたいだ。
宿近くのメトロ駅に着き、食料を買うためにスーパーに寄った。おお。なんて情熱的な高さだ!東欧で会った日本人旅行者はスペインは物価が安いと言っていたが、それは西欧を旅してスペインに入った人はそう感じるのだろう。東欧から入るとメチャクチャ高く感じる。だがしかしだ、ワインが情熱的に安い。
2リットル、1.1ユーロ。
マジか?アクエリより安くないか?
私は情報収集のため、バルセロナにある日本人宿(日本人旅行者が集まる宿)に一日だけ泊まった。そこで、南米を3ヶ月旅して、コロンビアからバルセロナに来た日本人カップルと知り合った。聞くと、昨日、バスターミナルでバックパックを刃物で切られ、危うく物を盗られそうになったらしい。彼いわくスペインはコロンビアより危ないのだそうだ。本当か?あの国民的英雄、イギータまで子供を誘拐するような国だぞ。その日本人宿で夜を過ごしていると、宿泊者からぞくぞくと被害報告が届いた。
I Phoneを盗まれた。
50ユーロ盗まれた。
どうやら本当に危ないらしい。スペインは首絞め強盗があり、その被害の8割が土、日に起きているのだそうだ。翌日曜日、街を歩くも、後ろを歩く人が怖い。後方からのタックルは一発退場だぞ。退場覚悟で狙ってくるのか?恐ろしい。シャビもプジョルもイニエスタもこういう環境で育ったのだろう。日本の選手とは危機管理能力が違う。日本はとても治安がいい。だが、ホームの環境が良いだけにアウェーでは脆弱。
大学時代に西欧、中欧のほとんどの国を旅したが、スペイン、ポルトガルは行けなかった。だから、ずっと憧れのようなものがあった。だからか、スペインは、バルセロナはメチャクチャ楽しい。それに、今までの国に無かったものが多くある。東欧の旅も驚くこと感動することが多くあったが、スペインにきて、こんなにぶっ飛ぶとは思わなかった。エジプトで無感動になっていたのが嘘のようだ。
そんなハイ状態なのも、旅の終わりがもうそこまできているからなのかもしれない。
スペインの夢① ガウディの建築をみる
スペインの夢② カンプ・ノウに入る
スペインの夢③ 闘牛をみる
スペインの夢④ フラメンコをみる
チェコは誠にいい国だった。7ユーロでプール・サウナ付きの宿に泊まれたし、4ユーロで中華食べ放題の店を見つけたし、クラシックコンサートを観れたし、チェコの新首相に遭遇したし。東欧はローコストハイクオリティの旅ができる。詳細は、近日公開予定(帰って暇ができたら・・・)、“東欧を月600ユーロで旅する”をご覧頂きたい。ヨーロッパをガイドブックを参考にして旅する時代は終わりを迎えつつある。これからはデータトラベルの時代。
さて、30時間のバス移動を終え、スペインのバルセロナに着いた。インフォメーションセンターで目的の宿までの行き方を聞き、昼過ぎにようやく宿に辿り着いた。シャワーを浴びた後、宿でゆっくり休もうと思っていたが、元気がみなぎってきて街に出たくなった。長距離移動を終えたばかりなのに、なんなんだ?スペインのシャワーは情熱入りなのか?
街に出、通りを歩いていると、地元民であろうお母さんが服を汚してしまった子供にクレームをつけている。おお。FCバルセロナのシャビが、審判にクレームをつけるような情熱的なジェスチャーだ。
それから、ガウディの建築、サグラダ・ファミリアに向かおうとするも、道がよくわからない。通りのオープンカフェの店員に道を尋ねた。すると、サグラダ・ファミリアの方向を指し、熱心に教えてくれる(スペイン語だけど)。おお。FCバルセロナのプジョルが前線の選手に指示を出すような情熱的なジェスチャーだ。
バルセロナの街歩きを終え、宿に戻ろうとメトロの駅を探した。すぐに見つからなかったので通りにいたおじさんにメトロの駅を尋ねた。すると、メトロの駅の場所を教えてくれるだけでなく、そこからどこの駅へ行きたいのかを私に聞き、目的の駅まで何番のメトロに乗って、どこで何番のメトロに乗り換えればいいかまで教えてくれる。おお。FCバルセロナのグアルディオラ監督のような的確で情熱的な指示だ。
メトロに乗り込み、車内で立っていた。すると、前に立っている女性の携帯が鳴った。トゥルル~トゥトゥトゥトゥトゥトゥ トゥルル~。 おお。携帯の着信音まで情熱的だ。ちょっと、暴れん坊将軍のテーマ曲みたいだ。
宿近くのメトロ駅に着き、食料を買うためにスーパーに寄った。おお。なんて情熱的な高さだ!東欧で会った日本人旅行者はスペインは物価が安いと言っていたが、それは西欧を旅してスペインに入った人はそう感じるのだろう。東欧から入るとメチャクチャ高く感じる。だがしかしだ、ワインが情熱的に安い。
2リットル、1.1ユーロ。
マジか?アクエリより安くないか?
私は情報収集のため、バルセロナにある日本人宿(日本人旅行者が集まる宿)に一日だけ泊まった。そこで、南米を3ヶ月旅して、コロンビアからバルセロナに来た日本人カップルと知り合った。聞くと、昨日、バスターミナルでバックパックを刃物で切られ、危うく物を盗られそうになったらしい。彼いわくスペインはコロンビアより危ないのだそうだ。本当か?あの国民的英雄、イギータまで子供を誘拐するような国だぞ。その日本人宿で夜を過ごしていると、宿泊者からぞくぞくと被害報告が届いた。
I Phoneを盗まれた。
50ユーロ盗まれた。
どうやら本当に危ないらしい。スペインは首絞め強盗があり、その被害の8割が土、日に起きているのだそうだ。翌日曜日、街を歩くも、後ろを歩く人が怖い。後方からのタックルは一発退場だぞ。退場覚悟で狙ってくるのか?恐ろしい。シャビもプジョルもイニエスタもこういう環境で育ったのだろう。日本の選手とは危機管理能力が違う。日本はとても治安がいい。だが、ホームの環境が良いだけにアウェーでは脆弱。
大学時代に西欧、中欧のほとんどの国を旅したが、スペイン、ポルトガルは行けなかった。だから、ずっと憧れのようなものがあった。だからか、スペインは、バルセロナはメチャクチャ楽しい。それに、今までの国に無かったものが多くある。東欧の旅も驚くこと感動することが多くあったが、スペインにきて、こんなにぶっ飛ぶとは思わなかった。エジプトで無感動になっていたのが嘘のようだ。
そんなハイ状態なのも、旅の終わりがもうそこまできているからなのかもしれない。
スペインの夢① ガウディの建築をみる
スペインの夢② カンプ・ノウに入る
スペインの夢③ 闘牛をみる
スペインの夢④ フラメンコをみる
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