2010/05/31

Auschwitz

セルビアの後は、ルーマニア、ハンガリー、スロバキア、ポーランド、チェコと移動してきた。一見、壮大な旅に思えるかもしれないが、そのとおりである。ヨーロッパでも、時に移動は大変。茨城から栃木に行くようなものだ。

ちなみに、茨城と栃木の県境一帯を「トチバラキ」とも「イバチギ」とも言わない。語呂合わせが悪いし、アクセスも悪いのだ。

この日、バスは快調にある目的地へ向かった。バス内の前方の席には韓国人夫婦とその子供がいた。子供は2~3歳だろうか、ベビーカーに乗っている。韓国から旅行に来たというよりは、ヨーロッパのどこかの企業で働いていて、ちょっと足を延ばして観光に来たという感じだった。

その子供が、盛んにトッポギ、トッポギ、と叫んでいた。そんな言葉をバックにバスからの景色を眺めていたが、トッポギと聞いていると、ふと何故か、トッポ・ジージョを思い出した。

旅は凄い。
普段思いもつかないことが思い浮かぶ。日によっては、三つくらい短編物語が思い浮かぶ。 芸術家、音楽家は壁にぶつかると麻薬にはしるようだが、麻薬ではなく、旅をすればいいのだ。

旅は麻薬。
また一つ、思い浮かんでしまった。(ありきたりだが)

トッポジージョを思い出している場合じゃない。今日バスが向かうのは、、、、、
アウシュビッツ強制収容所。

私は、東欧最大の見所をアウシュビッツと目していた。
しかし、アウシュビッツは予期していたものより迫力に欠けていた。それは、アウシュビッツが博物館化されていたからだ。観光客に見せるためのものと化し、重々しさが無く、往時のユダヤ人たちの苦しみを感じることができなかった。とんでもない非人道的なことが起きていたというのは確かなのに。アウシュビッツより、そこから数キロ離れたビルケナウという第二収容所のほうが迫力があった。息苦しさを感じたし、当時の行き場の無い苦痛が伝わってくるようだった。

アウシュビッツを後にし少したって、ふと、こんなことが頭に浮かんだ。
アウシュビッツは供養されているのかもしれない。毎日、何千人もの見物客が訪れる。私が訪ねたその時も多くの見物客がいたが、その誰もが皆、神妙な面持ちで見学していた。皆、悲惨な死を遂げたユダヤ人の冥福を祈っているようだった。人の気持ちなんて、そう簡単にわからない。でも、見物客はその人の気持ちに少しでも近づこうとしている人が多いように思えた。だから、悲惨な死を遂げた人々も供養されているのかもしれないと、そう思った。

だが、アウシュビッツは、私を無傷では帰してくれなかった。
それは、アウシュビッツに着いて数分後のことだった。ネパールのカトマンズで購入したNorth Face(偽)のズボンは、約8ヶ月間、いつも一緒だった。寒い時は、インナーにパタゴニアのヒートッテックを穿いてしのいだし、暑い時は、膝の部分にあるジッパーを切り離し、半ズボンとして着用していた。 アウシュビッツに着き、用を足そうとそのズボンのチャックを下ろそうとすると、そのチャックを上下に動かす”つまみ”の部分が折れた。折れたというより、つまんだ瞬間、”取れた”と表現した方が合っているかもしれない。チャックが折れるか普通?単なる偶然か。それとも、それ以外の何かか。。。


最後に、ウィキペディアでアウシュビッツと検索すると、こんな興味深い事が書かれていたので、以下、ウィキペディアより抜粋する。

第二次大戦の勝利者である連合軍は、あの過酷なアウシュヴィッツの環境で最後まで生を維持させた人間の特性に興味を抱き調査団を組織した。その報告が正確であるならば、生命の維持力と身体的な強靭さの間には何の関係も見出せなかった。そして生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された。

第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した。アウシュヴィッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した。

第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した。鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した。

第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した。戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう、この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した。



ルーマニア
 


ハンガリー


スロバキア


ポーランド(ビルケナウ)


チェコ (アオザイ?チェコはベトナム人が多いんです)
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2010/05/20

Yugoslavia

ブルガリアの後は、マケドニア、コソボ、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと移動してきた。一見、壮大な旅に思えるかもしれないが、たいしたことはない。もともとこの国々はユーゴスラビアというひとつの国だったのだし、ヨーロッパの国境越えは楽。茨城から千葉に行くようなものだ。

ちなみに、茨城と千葉の県境一帯を「チバラキ」という。(どうでもいいか)

東欧は、自分が想像していたよりも自然が豊富であった。中近東の荒涼とした砂漠の大地を移動してきた者にとっては、視界いっぱいに広がる緑の自然が目に眩しい。自然に癒されるからか、空気がおいしいからか、よく眠れる。時に、眠りすぎてしまう。そんな自然があり、おかしな出来事があり、ひとつの国境を越えるということがこんなに面白いのだということを再認識する旅が続いたのだが、旅は楽しいことばかりではない。時に、厳しい現実、悲しい過去を目の当たりにする。

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年から1995年まで3年半内戦が続いた。セルビア系、クロアチア系、イスラム系の住民が 民族の違いだけでお互いを殺しあい、第二次世界大戦後のヨーロッパで最大の死者数を出した。

ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTARという町で。
無数の砲弾の痕が残る家々やビル群を恐る恐る見て周り、一息つこうと広場のベンチに腰掛けた。すると、隣のベンチに座っていた地元のおじさんに声をかけられた。ヨーロッパで人に話しかけられるのは珍しい。英語をほとんど解さないおじさんだったが、どこの国からきた?何歳だ?という簡単な質問にはじまり、身振り手振り、時に紙に数字を書き、いろんなことを聞いてきた。

長く旅を続けていると、多少言葉が通じなくても、相手の言いたい事が分かるようになる。おじさんはどうやら、日本では一ヶ月の給料がどれくらいなのか聞きたいようだった。私は少なく見積もっても、20万円くらいはもらえるだろうと思い、1600ユーロと答えた。その答えを聞くと、おじさんは、俺は400ユーロくらいだと嘆いていた。55歳のおじさんがどんな仕事をしているのかわからない。だが、とりわけ身なりが悪いわけでもない人が月給5万円程度で生活しているのは驚きだった。

私は、おじさんがどの宗教に属しているか聞いてみた。おじさんはクリスチャンだと言った。そしてそれとなく、クリスチャン(キリスト教徒)とムスリム(イスラム教徒)は、今ではもう仲がいいのですか、と聞いた。おじさんは、YESともNOとも言わず、目を瞑り、黙って首を横に振った。その否定の仕方が、いまだに埋まらない民族間の溝の深さを表しているようだった。

おじさんは私が手にもつ市街マップを取り、この川を境に北側がキリスト教住民の地区、南側がイスラム教住民の地区、と手振りで教えてくれた。言われるまで気づかなかったが、確かに北側に教会、南側にモスクが集まっていた。そして、その教会やモスクの傍には無数のお墓があった。その墓石彫られた没年のほとんどが1993と刻まれていた。

セルビアの首都ベオグラードで。
宿のスタッフにこの町の見所はどこか聞いてみた。ここにあれがあって、あそこにこれがあると丁寧に教えてくれる。その説明をなんとなくボンヤリ聞き流していたが、「ここには1999年にNATOが空爆したビルが残っている」と言われ、ハッと我に返り、どの観光スポットよりもまずそれを見たいと思い、そこへ向かった。

今にも崩れ落ちそうなビルを前に、言葉を失った。ビルの周りには、近代的とはいえないが、普通の佇まいのビルが並んでいる。そのNATOに空爆されたビルは、何故今もその無残な状態で残されているのかわからないが、周りの景観との断絶感が「これがNATOがやった仕業です」と言い示しているかのようだった。

P.S
数日前まで半袖、サンダルという格好でよかった気候が、気温が急に下がり、日中でも8℃くらい。吐く息が白く、冬に逆戻りしたよう。過去の悲惨な紛争ばかりでなく、異常気象という現代の環境問題らしきものまで私の体を襲うとは、何とも厳しい。。。


マザーテレサの生まれ育った国 in マケドニア


この電線の多さには何か意味がありそう in コソボ


これぞヨーロッパ in モンテネグロ


これぞヨーロッパ in クロアチア


砲弾の痕 in ボスニア・ヘルツェゴビナ


空爆の痕 in セルビア
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2010/05/01

Robber

バルカン半島っていう響き、カッコイイよね。こういう地名の響きに惹かれて移動することが最近多いんだけど、結構大事だと思うんだよね、そういうインプレッションみたいなもの。

ブルガリアの首都、Sofiaにきました。日本人の持ってるブルガリアのイメージといったら、ヨーグルト、琴欧州、ストイチコフ(サッカー好きなら誰でも知ってるはず)だよね。でも、ブルガリアには旅行者に嬉しい特典がいっぱいあるんです。

まずは、宿。
ここSofiaの街の中心部にHostel Mostelっていう宿がある。この宿のコストパフォーマンスは相当高い!清潔なドミトリーベット、シャワールームはもちろん、無料のビリヤード・インターネット、紅茶、コーヒー、朝食まで全てついて、なんと10ユーロ(約¥1250)!さらになんと、夕食に無料でパスタとビール一杯までついちゃいます!

お次はこれ、大事ですね~、飯。
ブルガリアの物価の安さは、ヨーロッパのなかでもトップレベル(つまりそれは、ブルガリアの経済が良くないということだが)。だけど、物価の安さに反して、食べ物の質が高い。例えば、路上でビザなんかが売られてるんだけど、大きいサイズのピザが1ピース約¥120で食べれる。これが旨いんだよね。

さらに、Sofiaには華僑が営む中華料理店が多く、美味しい中華が食べれる。野菜チャーハンなんかが、大盛りで約¥200で。これも旨かった~。あんなに米食べたの久しぶりだったな~。

それで、酒も安い!!! この酒の安さは、これまでの国と比べても一番じゃないかな。ビールが2リットルで売られてるんだけど、これが約¥140程度。ブルガリアにきて、毎日飲んでます。

お次は娯楽。
街のあらゆるところにカジノがあり、小額から賭けられるらしいです。一攫千金、狙えるかも。それに、男性諸子が夜遊びできるところもあるらしい。

最後に自然。
Sofiaは街からバルカン山脈が見えて、自然が心を癒してくれるんだよね。それに、ミニバスでちょっとSofia郊外にでれば、森で軽いハイキングなんかもできるし。あんなに緑を見たの久しぶりだったな~。

いやいや、本当に、ブルガリアはいい国ですよ。大学生諸君に言いたい。盗難アジア(東南アジア)もインド痛い陸(インド亜大陸)にもいったなら、ブルガリア、東欧の旅をおすすめする。確かに、盗難アジアやインド痛い陸は安い。宿も飯も安い。でも、あれは、値段相当の品質でしょ。部屋が狭かったり、汚かったり、お湯も出なかったり,出たってぬるかったり、時間制限があったり。だったら、ローコスト、ハイクオリティのブルガリアで楽しもうよ。楽しいから。

でもね、ここブルガリアもちょっと気をつけなければならないことがある。

スリが多いからね、貴重品を奪われないよう気をつけてね。

美人が多いからね、ハートを奪われないよう気をつけてね。
(このもっていきかた、ベタだな)

以上、赤ワインでほろ酔い気分、ブルガリア政府臨時観光大使がおおくりしました。



ピザ、旨い。


野菜チャーハン、こちらも旨い。


街からバルカン山脈が望めます。


こういうのヨーロッパっぽい。