2010/05/20

Yugoslavia

ブルガリアの後は、マケドニア、コソボ、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと移動してきた。一見、壮大な旅に思えるかもしれないが、たいしたことはない。もともとこの国々はユーゴスラビアというひとつの国だったのだし、ヨーロッパの国境越えは楽。茨城から千葉に行くようなものだ。

ちなみに、茨城と千葉の県境一帯を「チバラキ」という。(どうでもいいか)

東欧は、自分が想像していたよりも自然が豊富であった。中近東の荒涼とした砂漠の大地を移動してきた者にとっては、視界いっぱいに広がる緑の自然が目に眩しい。自然に癒されるからか、空気がおいしいからか、よく眠れる。時に、眠りすぎてしまう。そんな自然があり、おかしな出来事があり、ひとつの国境を越えるということがこんなに面白いのだということを再認識する旅が続いたのだが、旅は楽しいことばかりではない。時に、厳しい現実、悲しい過去を目の当たりにする。

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年から1995年まで3年半内戦が続いた。セルビア系、クロアチア系、イスラム系の住民が 民族の違いだけでお互いを殺しあい、第二次世界大戦後のヨーロッパで最大の死者数を出した。

ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTARという町で。
無数の砲弾の痕が残る家々やビル群を恐る恐る見て周り、一息つこうと広場のベンチに腰掛けた。すると、隣のベンチに座っていた地元のおじさんに声をかけられた。ヨーロッパで人に話しかけられるのは珍しい。英語をほとんど解さないおじさんだったが、どこの国からきた?何歳だ?という簡単な質問にはじまり、身振り手振り、時に紙に数字を書き、いろんなことを聞いてきた。

長く旅を続けていると、多少言葉が通じなくても、相手の言いたい事が分かるようになる。おじさんはどうやら、日本では一ヶ月の給料がどれくらいなのか聞きたいようだった。私は少なく見積もっても、20万円くらいはもらえるだろうと思い、1600ユーロと答えた。その答えを聞くと、おじさんは、俺は400ユーロくらいだと嘆いていた。55歳のおじさんがどんな仕事をしているのかわからない。だが、とりわけ身なりが悪いわけでもない人が月給5万円程度で生活しているのは驚きだった。

私は、おじさんがどの宗教に属しているか聞いてみた。おじさんはクリスチャンだと言った。そしてそれとなく、クリスチャン(キリスト教徒)とムスリム(イスラム教徒)は、今ではもう仲がいいのですか、と聞いた。おじさんは、YESともNOとも言わず、目を瞑り、黙って首を横に振った。その否定の仕方が、いまだに埋まらない民族間の溝の深さを表しているようだった。

おじさんは私が手にもつ市街マップを取り、この川を境に北側がキリスト教住民の地区、南側がイスラム教住民の地区、と手振りで教えてくれた。言われるまで気づかなかったが、確かに北側に教会、南側にモスクが集まっていた。そして、その教会やモスクの傍には無数のお墓があった。その墓石彫られた没年のほとんどが1993と刻まれていた。

セルビアの首都ベオグラードで。
宿のスタッフにこの町の見所はどこか聞いてみた。ここにあれがあって、あそこにこれがあると丁寧に教えてくれる。その説明をなんとなくボンヤリ聞き流していたが、「ここには1999年にNATOが空爆したビルが残っている」と言われ、ハッと我に返り、どの観光スポットよりもまずそれを見たいと思い、そこへ向かった。

今にも崩れ落ちそうなビルを前に、言葉を失った。ビルの周りには、近代的とはいえないが、普通の佇まいのビルが並んでいる。そのNATOに空爆されたビルは、何故今もその無残な状態で残されているのかわからないが、周りの景観との断絶感が「これがNATOがやった仕業です」と言い示しているかのようだった。

P.S
数日前まで半袖、サンダルという格好でよかった気候が、気温が急に下がり、日中でも8℃くらい。吐く息が白く、冬に逆戻りしたよう。過去の悲惨な紛争ばかりでなく、異常気象という現代の環境問題らしきものまで私の体を襲うとは、何とも厳しい。。。


マザーテレサの生まれ育った国 in マケドニア


この電線の多さには何か意味がありそう in コソボ


これぞヨーロッパ in モンテネグロ


これぞヨーロッパ in クロアチア


砲弾の痕 in ボスニア・ヘルツェゴビナ


空爆の痕 in セルビア
Posted by Picasa

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