2011/06/25

理由

翌朝、強烈な日差しと暑さと、喉の渇きで目が覚めた。

前日の23時に家を出た私は、まず国道6号線でいわきまで行き、いわき三和ICから高速道路に乗り磐越自動車道を走り、郡山ジャンクションで東北自動車道に乗り換え、宮城の白石ICで高速を降り、そこから国道4号線で宮城県の名取市に入った。そして、午前3時に名取市のあるコンビ二で車を停め、そこの駐車場で夜を明かした。

携帯のアラームは8時にセットしておいたが、7時に目が覚め、ぐっすり寝た感覚が得られたため、二度寝することなく名取市の災害ボランティアセンターが設置されている名取市民体育館に向かった。

なぜ名取市を選んだのか。それには私なりの理由があった。

災害ボランティアをやることを決意した時、次にどの被災地でやるのかということを決めねばならなかった。メディアからは、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石といった地名をよく見聞きする。そのなかで茨城から一番近い石巻にしようかなと当初は考えていた。しかし、インターネットで石巻のボランティア情報を見ると、あれはダメ、これはダメ、ルールを守れない人は退場していただきます。といった厳しい文言が(当時は)大きく掲載されていた。私はそこから、『Welcome』というメッセージを感じとることはできなかった。ボランティアをする人に対しあからさまに禁止事項を説くのはどうだろうと疑問に思ったからだ。だが同時にそれは、石巻が大勢のボランティアで混乱しているのではないかとも思えた。

さて、どこにしよう。そんな思いを抱いたまま過ごしていたある時、新聞を読んでいるとそこに東北の太平洋沿岸部地図上に震災による市町村ごとの死者数が書かれていた。やはりメディアに大きく取り上げられている都市は死者も多い。しかし、メディアであまり見聞きしない都市でも死者数が多いところもある。そのとき、一つの考えが浮かんだ。

今回の震災で茨城も大きな打撃を受けたが東北3県のインパクトがあまりにも大きいため、ほとんど支援がなかった。必ずしも被害大きさに比例するように正しく支援を受けられるわけではない。茨城のような、大きなスポットを浴びないものの、被害の少なくない、そんな土地があるはずだ。そんな忘れられた被災地へ行こうとそう考えた。

宮城県の沿岸部を南から見ていくと、山元町、亘理町、岩沼市、とあり名取市のところで目が止まった。すぐ南に位置する岩沼市の死者数195名と比べ、名取市は928名(当時)とある。この死者数の違いが奇異に思えたし、メディアの露出度の少なさと比べると被害がかなり大きいように思えた。

名取にしよう。直感も相まって名取という土地でボランティアをすることにしたのだった。
そしてこの決断が、後々多くの驚きと偶然をもたらすことになった。



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2011/06/17

動機

東北に入る前に、我が市の社会福祉協議会に足を運んだ。理由は災害ボランティア保険に入るためである。保険料は自分で負担するものだと思っていたが、実際申し込むと県が全額保険料を負担してくれるようでお金がかからなかった。

なぜ災害ボランティアをするのか。それには私なりの動機がある。

私はそれまでボランティア活動に対して肯定的に捉えることができないでいた。ボランティアと名が付く活動は全て、無条件で良いことをしているのだと世間も当人も考えるような、そんな風潮が嫌だったからだ。それゆえ、ボランティアは『偽善者の自己満足』と自分のなかで歪んだ定義づけをしてしまっていた。

しかし、この考えは旅で大きく覆されることになった。それは一つにマザーハウス、『死を待つ人の家』でのボランティア体験が大きい。旅に出る前、ある知人からインドに行くことがあれば、マザーハウスでボランティアするように、と強く勧められていた。その知人は、実際の体験者であり、いろいろ考えらせられるから貴重な体験になる、とアドバイスをくれていた。

旅の途中、インドのコルカタに入ると、実際に『死を待つ人の家』でボランティアをした。だが、その活動を通して、考えさせられるどころか、思考回路を失い、呆然としてしまった。今までに見たことがない強烈な光景がそこに広がっていたからだ。私は、目の前の与えられた仕事を不器用にこなすのが精一杯だった。

ボランティアから離れると少し考えるものがあった、。マザーハウスでは何ヶ月、何年もボランティアをしている外国人が少なくない。彼らは入所者の介護、排泄、掃除、洗濯という肉体的に辛い仕事もするし、日々生命の終りを看取るという精神的に辛い仕事もする。それを何の報酬もなくである。長期間ボランティアをしているある日本人は、コルカタ滞在中にマラリアや、デング熱にかかり死を彷徨ったこともあったと話していた。

私はそういう彼らの姿を見聞きし、もはやボランティアを『偽善者の自己満足』とは全く思わなくなっていた。そして、自分も彼らのように、社会的に弱い人、困っている人を助けられる存在でありたいと思うようになった。

そのようなマザーハウスでの強烈な体験と、そこで働く人たちから受けた影響が、今回災害ボランティアへと向かわす動機となった。(もう一つ大きな動機があるが、ここでは伏せておく)

久しぶりにバックパックを取り出し、必要な旅具を入れ、また、震災後に調達した非常食も兼ねた乾麺、缶詰を集め、携帯ガスコンロも用意し、それらを車に積め、夜11時に家を出発した。

50分も車で一般道を走らせると、福島県いわき市に入った。そこからまたしばらく走り、薄暗い道路案内の看板から、双葉町、南相馬市という文字が目に飛び込んでくると、あらためて自分の住む町が、世界的にも知れ渡ってしまった『福島第一プラント』からさほど離れていないことを実感した。車のラジオからは、都はるみの『あんこ椿は恋の花』というやけに力強い歌が流れていた。



 
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2011/06/13

旅の気配

ご無沙汰しいてます。前回の投稿からだいぶ更新が滞ってしまいました。
3.11の震災から3ヶ月。その間さまざまなことがありましたが、私の安否や物資の支給等をお気遣いいただいた多くの方に、心よりお礼申し上げます。

私の住む茨城も岩手、宮城、福島ほどではないにせよ、震災によって多くのものが破壊され、失われました。震災直後は電気、ガスは、水道はそれぞれ5日、8日、10日使用することができませんでしたし、放射能による直接、間接の被害が今なお残るのも事実です。

そういえば、震災後に安否確認のメールくれた旅の友がこんなことを言っていました。『不謹慎かもしれないが、震災で旅を思い出した。』私もその言葉に大きく頷けるものがあります。それというのも、震災によって多くのことに気づき、学んだからなのです。

被災地へと赴いた先週から昨日までの体験について、これから少し記したいと思います。




 
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