2011/07/28

距離感

ボランティアの送迎バスは、我々の作業現場である家のそばで停車し、我々が用具を積み下ろすと、次の作業現場へと走り去っていった。

バスを降りた地点には無人精米機が2台並んでいたが、どうしたらこのようにに壊れるのだろうというくらい破壊されていた。いや、無人精米機だけではない。車も家も店もほとんどが『壊滅的』に壊れていた。

スコップやバケツなどの作業用具を持ち、作業現場である家の庭に運び入れた。家の中では既に大工らしき人たちが淡々と作業をしていた。我々のボランティアのリーダーがボランティアに来た旨を家の奥さんらしき人に伝え、我々がすべき作業を聞いた。

奥さんの作業指示を聞きながら周りを見渡すと、斜め左先に『閖上』という名の中学校が見えた。なんと読むのか分からなかったが、あとで作業した地点を確かめるための目印になるだろうと思った。また、家の前を通り海へと続く道路では、警備員数人が通行規制をしており、通行許可証を持たない車が次々とUターンさせられていた。

我々がすべき作業はというと、大工さんたちが壊した屋内の壁やらドアからでる木屑やゴミ、塵を取り除くというものだった。床下の土砂はほとんど取り除かれているので、最初は簡単な作業のように思えたが、なかなか難しかった。

床下を家の土台となる木が網目のように通っているため、移動するには木の上をバランスをとりながら歩かなければならないし、ゴミを集めるのにも木が邪魔になる。また、特にその木の網目の細かい場所では、ほうきやちりとりを動かすスペースが限られ、なかなか道具を思うように動かせないのだ。

また、一つ失敗したと思ったことがあった。家の中の作業なので日の光は防いでくれるが、風が強く吹き付けるため、ほうきで掃いた屑が風で舞い上がり、それが目に入ってしまう。目を守るゴーグルを持参しておけばよかったなと後悔した。

1時間の昼休憩に入り、ボランティアメンバーの一人が名取市の人だったので、『閖上』という文字をなんと読むのか問うと、『ゆりあげ』と読むとを教えてくれた。そして、後にこの閖上という地区が名取市最大の被災地域であることを知った。

その後も家の主人や奥さんのテキパキとした指示に従い作業に励んだ。作業が進むごとに別のものも見えてきた。家の壁や階段下に付着したヘドロ、ゴミ。家の一階の大部分をのみ込んだ約2メートルの波の痕。その後もいくつかの細かい作業を丹念に他のメンバーで協力してこなし、15時に作業を終えた。

作業後、ボランティアメンバーと家の主人、奥さんと話をした。主人と奥さんは我々にこういう話をしてくれた。津波がきた時、津波が家を流し、その流された家が他所の家を流していった。周辺の家々はほとんど将棋倒しのように流されてしまったが、この家はなんとか残った。それは、『門がなければ文無しになるから、家を建てるときは必ず門を作りなさい』と口すっぱく言っていた明治生まれのお婆さんの教えを守ったからだという。

門は今にも崩れ落ちそうに壊れてしまったが、海の方向に向いて建つその門が、今回の津波に対して防波堤の役割を果たし、家の骨組みと土台をなんとか守ったのだ。

大地震の時、主人は仕事で不在だったが、奥さんは家にいた。奥さんは、まさかここまではこないだろうと思い、家に留まっていたという。だが、轟音とともに迫る津波が目に飛び込んできて、大急ぎで避難し、命からがら助かった。

海から家までの距離を尋ねると、だいたい1.6kmくらいだという。それを聞いて、他人事のように思っていた津波が、急に現実的なものとなった。私の家も海から1.5kmくらいの距離だからだ。海に面する町に住むものにとって、この距離は近いと思うものでもない。海が目に見え、潮の香りがする所でもなければ、海からの害があるなど思いもしないからだ。

海から1.6kmの距離で高さ2mの津波。
私は、今回の大地震の震源地が自分の地域に近く、自分の家まで津波がきていたら、と考えずにいられなかった。



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2011/07/02

視えない被災

ボランティアセンターが設置されている名取市民体育館に行くと、朝の7時とまだ時間が早いせいか入り口のドアが閉まっていた。ボランティアの受付開始の8時まで時間があるので、車で朝飯のおにぎりを食べ腹ごしらえをした。7時半にもなるとボランティアらしき人達が、体育館からスコップ、一輪車などのボランティアが使用する道具をきびきびと手際良く外へ持ち出した。後から知ったことだが、彼らは東北福祉大学と尚絅学院大学という地元の大学の学生たちで、実際に被災現場に行って活動をするボランティアではなく、現場でボランティア活動をする人達がスムーズに活動できようサポートするための、スポーツチームにおけるマネージャーのようなサポート役のボランティアだった。

8時を少し過ぎたところで体育館に入った。まずは、初めてボランティアするための登録手続きをしたが、これは事前にボランティア保険に加入していたこともあって簡単に済んだ。次に館内に入ると、まず目に飛び込んできたのは、支援物資が詰まれている大量のダンボールだった。体育館の7割は支援物資のスペースとして使用され、残りの3割がボランティアを運営するためのスペースになっているようだった。また、体育館の壁には芸能人やスポーツ選手からの励ましのメッセージが掲示されていた。私の目にはいろいろ真新しいものばかりだったが、その中でも一番目に付いたのは、ボランティア参加者のなかに欧米人らしき外国人男性が一人いたことだ。どんな素性の人なのだろう、話す機会があればいいなと思った。

ボランティアのオリエンテーションの始まる9時になると、まずラジオ体操から始まった。ラジオ体操をするのは何年ぶりだろう、そんな感傷にも浸ったが、誰一人このラジオ体操をダラダラとやる者はいなかった。これから始まるボランティアがキツイということを暗示しているようにも思えた。オリエンテーションは名取市のボランティアセンターのスタッフによって手際よく進められていく。この名取ボランティアセンターは、ボランティアの活動内容や場所をボランティア参加者がある程度選択できるマッチングという方式をとっており、ボランティアセンターに早く来た者がより、活動内容を選べるようなシステムになっていた。

私は初めてのこともあって、場所はもちろん活動内容もどんなものなのかほとんどわからなかったので、どんな活動でもいいなと思っていたが、せっかくこうしてここまで来たのだから、楽なものよりキツイ仕事をしたいなと思った。結局、家の土砂だし、片付けをボランティア4名で行う活動に決まった。そして、マネージャー役のボランティアが用意しておいてくれたスコップやバケツ、土のう袋等の用具をピックアップし、それを送迎マイクロバスに積み込み、現場に向かった。

バスで5分も走ると景色が一変した。瓦礫で散らかった土地、打ち上げられた船、原型をとどめない家や車、これまでテレビで何度も見てきたはずのものだが、実際に自分の目で見るとその落差が大きかった。地震の揺れだけではここまでの被害はおきない、あきらかに津波による被害をわかるそれは、絶望的な被災の痕を残した。

長いことユーラシア大陸を旅して様々な場所に行ったが、ここまで生々しさの残る被害現場を見たことはなかった。絶望的な風景に声を失う、とにかくそこから始まった。