2010/03/28

Good bye ASIA

イスラエルからヨルダンに戻った私は、中東最大の遺跡と名高いぺトラ遺跡を見た後、次なる地に向かって移動した。車窓からの景色は、雲の隙間から覗く太陽の光が砂漠を照らし、それが砂漠を黒と白に分けていた。

砂漠を見ると、あの時を思い出す。

あれは確か大学3年の夏休みだったろうか。私はアメリカのロサンゼルスで2週間を語学研修、後の2週間を観光、という日々を過ごしていた。その2週間で、ロサンゼルスを基点に、南はサンディエゴ、メキシコのティワナ。西はラスベガス、グランドキャニオンという土地を旅した。もちろん、時間はあっても金は無い大学生である。数あるバス会社のなかから、格安の中国人向けツアーバスで移動した。バスは中国人向けならではの環境で、備えつけのテレビからは超大音量で中国映画が流れ、車内アナウンスもマイクを使うにもかかわらず、これでもかというほど大声で話されるのだった。

そんな環境だったこともあり、アメリカ西部ならではの砂漠の風景を心置きなく楽しみめないでいた。疲れていた。耳も、心も。

そんな時、バスは砂漠に建つアウトレットモールでショッピングも兼ねた小休憩をはさむ。そして、CDショップの視聴機で一つの名曲と出会うことになる。

“Norah Jones”  「Don't Know Why」

この曲が私の疲労しきった耳と心を優しく癒してくれた。私にとって砂漠のオアシスとは、この“曲”だった。それから、この曲を聴く度に、あの砂漠をバスで進んだ日々を思い出す。

あれから約10年、今度はこの中東の砂漠を見て、アメリカ西部の旅を思い出す。

懐かしい。アメリカ西部の砂漠と、大学生だった自分。

中東の旅では、ドミトリー(相部屋)生活が長かった。大学の春休み期間ということもあり、そこで多くの日本の大学生と出会った。私から問うたわけではないが、大学生同士で話しているのを聞くと、誰もが名の通った大学に通う学生だった。中東で会った大学生は、東南アジアで会った大学生とは、人種が異なっているように思えた。皆、しっかりとした目的意識を持って旅している奴らが多かったからだ。私は、私以外皆大学生というドミトリーを何度か経験した。そして、そんな大学生たちと何度か酒を酌み交わし、語り合った。ここでも、青春時代を思い出すことになった。


港に到着し、車を降り、船に乗り込む。よく遅延することで有名なフェリーも定刻どおりに出航し、座席で1時間ほど眠ったあと、甲板にでた。

アジアが終わる。11ヶ月も旅した、アジアが。

白く泡立った航海線をじっと見ていると、アジアでの濃密な日々が思い出される。

顔を上げ、振り返りる。この先には、新たな大陸が待っている。

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2010/03/26

ジャーナリスト宣言

イスラエル、エルサレムのとある金曜日。
エルサレム市街を上から見渡せるオリーブ山に登った帰り道のことでした。

ん!?
何やらもめてるぞ。


おかしいと思って旧市街のなかに入ってみると・・・
やっぱり、ここでももめてる。


いったん騒ぎが沈静化すると、そこにいた警備隊が別の場所へ向かって走り出した。


その先には・・・
さらなる人だかりが!


どうやらイスラエルの警備隊が、イスラム教徒の岩のドームへの入場を制限し、入場を許されないイスラム教徒と警備隊が衝突しているようだ。各国のジャーナリストたちも、一連の騒動を必死に撮影している。



イスラム教徒にとって金曜日の礼拝は、一週間で最も重要な祈りの時であることはいうまでもない。岩のドームへ入ることができず、うなだれるイスラム教徒たち。




私の愛するイスラムの人たちをいじめるとは、なんて奴らだ!
こうなったら、チェックしたる、チェックしまくったる!!


後ろが無防備ですな、そこの警備さん。


チェックする人をチェックしたる①


チェックする人をチェックしたる②


完全装備の警備隊、スキがない。(でも撮るけどね)




以上、臨時ジャーナリスト、MURATAよりおおくりしました。
3/19撮影

2010/03/22

ガラスの聖地

中東へ舵を取る。それは中東諸国をこの目で見たいというおもい以外に、もう一つ最大の理由があった。それは、3つの宗教の聖地が一堂に会したところ、つまり、イスラエルのエルサレムを訪れるということである。

旅に出る前、イスラエルへ行けるなど思っていなかった。だが、旅先で集めた情報によると、いくつかの難題はあるものの、どうやら行けるらしいということがわかった。ヨルダンの首都アンマンに着いた私は、数日過ごした末、そこで会った日本人3人と私を含めた4人で、イスラエルを目指した。

イスラエルの入国スタンプがあると、多くのイスラム国に入国を拒否されることは、よく知られた話しだろう。イスラエルも自分の身の上はよく分かっているようで、希望する者には、入国のスタンプをパスポートではなく別紙に押す、という処置をとってくれる。ただし、何故別紙に押す必要があるのか等、意地悪な質問攻撃に遭うのだが・・・

日本人4人のうち女性2人は、すんなりとイスラエル入国をはたしたが、私ともう一人の大学生が3時間ちかく待たされることになった。ただ、その大学生がいてくれたおかげで、熱い“人名しりとり”合戦を繰り広げ、暇はつぶせはしたが。それに、あれくらいの障害があってもいいだろう。私の目指す場所は“聖地”なのだ。

3つの宗教の聖地といわれる場所、

ユダヤ教における、嘆きの壁。
キリスト教における、聖墳墓教会。
イスラム教における、岩のドーム。

いずれの聖地もその名に恥じない重層感があった。その場所に初めて足を踏み入れた時は、いつ以来だろうか、鳥肌が立った。私は、そのいずれの聖地もゆっくり時間をかけて、心いくままに見続けた。

ここイスラエルで、今まで感じることがなかったことがもう一つあった。それは、東洋人に対する差別的な目である。3つの聖地が会する旧市街内、パレスチナ自治区のベツレヘム、そこを歩くと、冷たい目、歪んだ笑み、汚い言葉を投げかけることがよくあった。それにいちいち反応している旅行者もいたが、私は特に怒りをあらわにすることはなかった。人間的に成長したからであろうか、それとも、長い旅路の果てに感覚が鈍ったからであろうか。

私がエルサレムに滞在した時期に幾つかの事件が起きた。イスラエルが東エルサレムでのユダヤ人入植地拡張を発表したことを端に発し、パレスチナ人数百人が警官隊と衝突し、約90人の負傷者が出た。また、イスラエル南部のキブツ(社会主義的な共同農場)にパレスチナ自治区ガザ地区からロケット弾1発が撃ち込まれ、タイ人農業労働者1人が死亡。ガザからのロケット弾攻撃で死者が出たのは、2008年末~09年初めにかけイスラエル軍が実施した大規模なガザ攻撃以来だったらしい。

私は、イスラム教徒にとって一週間で最も重要な金曜日の礼拝の時に、イスラエル警官隊が岩のドームへの入場を制限し、警官隊とイスラム教徒が衝突し、もみ合いになるというのを目の当たりにした。

何故に争う。名こそ違えど、そもそも一つの神ではないか。
そう思うものの、いち旅行者が到底理解できないマグマのようなドロドロしたものが、この聖地を覆っているのだろう。

この聖地にきてわかったことがあるとすれば、わからない、ということだった。




嘆きの壁


聖墳墓教会


岩のドーム


死海

2010/03/12

アラブの人情

このユーラシア大陸の旅において、中東という広い地域をドバイしか訪れないのはあまりにももったいない。そう考えるようになり、トルコからヨーロッパではなく、中東に舵を取ることにした。移動経路はこのようなものになった。

《TURKEY》、Antakya(シリアとの国境の町)

《SYRIA》、Aleppo(石鹸で有名) →Hama(水車の町) →Palmyra(世界遺産) →Krac des Chevaliers(世界遺産) →Apamea(ローマ遺跡) →Tartus(地中海沿いの町)→Arwad island(小島)

《LEBANON》、Tripoli(お菓子の本場)→Byblos(世界遺産)→Beirut(首都)→Baalbeck(世界遺産)

Back to 《SYRIA》、Damascus(首都)

《JORDAN》、Amman(首都)

ここまでの旅で驚いたことといえば、アラブの、いや、イスラームの人々が極めて親切だということである。それは、これまでの親切な人が多かった国と比較しても桁違いなところがある。また、アラブ諸国は男女の交流が禁じられていると思っていたが、ここはチャドルを身にまとった女性でも外国人であるためか、私に話しかけてくれたりする。それが、以外であり、また、嬉しかった。

この3カ国だけの枠でいえば、北部のへ行けばいくほど人がよく、また地中海、つまり西部へ行けばいくほど、開放的になるように感じた。

実際にビックリした体験をここで挙げてみる。

・シリアHamaで女性がいきなりトンガリコーンのようなお菓子をアーンってな具合に食べさせてくれようとしたこと (それはまずいと思い、手にもらってから口に運んだ) 。

・シリアPalmyraで少年にサッカーボールにサインを求められたこと(転がってきたボールを蹴り返しただけなのに)。

・レバノンで物乞いの人が道を案内してくれたこと(お金を恵んでないのに)。

日本における中東情勢の報道はアメリカの影響を強く受けているため、日本人が受ける情報はアメリカよりにならざるを得ないらしい。だから、中東は物騒な場所で、テロリスト国家である、という片寄った認識してしまう。でも、実際こうして足を運んでみると、それが誤った認識であるということがよくわかる。

やっぱり、実際に自分の目で見て、自分の手で触れてみないと、わからない。

だが、そうやって多くの旅人が未知の危険な土地に足を踏み入れていってしまうのだろう。

2004年にイラクで人質となった末、殺害された香田証生さんは、宿の従業員と日本人旅行者の制止を振りきって、ここアンマンからイラクに入っていったらしい。

その気持ち、わからないでもない。
旅人たるもの、まだ見ぬ世界を見たいのだ。


Palmyra遺跡


Baalbeck遺跡


Aleppo市街 
 
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